与謝野蕪村 菜の花や。 蕪村 俳句70選 (2016年9月20日)

与謝蕪村

与謝野蕪村 菜の花や

そこは編集工学研究所が借りていて、1階の井寸房(せいすんぼう)や本楼(ほんろう)、2階のイシス編集学校の事務局にあたる学林と制作チーム、3階の企画プロデューサー・チームと総務・経理などに分かれている。 その3階に松岡正剛事務所も入っていて、ここに太田・和泉・寺平・西村の机、そしてぼくの作業用書斎がある。 部屋ではなく書棚で囲んだ領土(領分)になっていて、8畳まで広くない。 ふだんは、この「囲い」の中の大きめの机の上にシャープの書院とDELLのパソコンが並んでいて、二つを同時に使って執筆する。 両方とも通信回線は切ってある。 だからぼくへの通信は松岡正剛事務所のスタッフを通してもらわなければならない。 ケータイ(スマホは持たない)も番号を知る者はごく少数なので、めったに鳴らない。 メールも切ってある(メールは30年間、使っていない)。 思想系の本と新着本と贈呈本ばかりで、選書の基準は「できるだけ複雑に」というものだ。 「面倒がかかる本」ばかりが集まっているのだ。 ただ、すでに満杯である。 だからときどき棚卸しをして、各階に配架して隙間をあける。 配架といっても、全館の書棚にはすでにおそらく6万冊以上の本が入っているので、こちらももはや溢れ出ている状態だ。 だから二重置きしているほうが圧倒的に多い。 それでも、たいていの本の位置は太田と寺平がおぼえている。 ひとつは肺癌手術をしたあと、事務所が導入してくれたリクライニングチェアだ。 食後や疲れたときにここに坐り、たいてい本を読む。 ほどなくして疲れて背を倒して寝る。 これはほぼ日課になってきた。 ここで着替えるのだが、この作業がぼくには必須なのである。 本を摘読することと着替えることとは、まったく同義のことであるからだ。 「本」と「服」とは、ぼくにはぴったり同じものなのだ。 実はもうひとつ同義なものがある。 それは「煙草」と「お茶」(あるいは珈琲)だ。 ちなみに自宅の書斎はもっと小さい。 書院とipad、それに書棚が二つで、本の数はごく少量だ。 いつも300冊くらいが少しずつ着替えているくらいだと思う。 戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 秋もはや其の蜩(ひぐらし)の命かな 立ち聞きのここちこそすれ鹿の声 蜻(こほろぎ)や相如が絃のきるる時 秋の始まりの句だ。 「其の蜩」は「その日暮らし」とも読めて、「その」が効いている。 「相如が絃」は司馬相如が卓文君の恋情をもよおして弾いた琴のこと、その絃がぷつりと切れたかのようにコオロギが鳴きやんだという一瞬の趣向である。 虫の音というもの、ずっと鳴いているときよりも、ぷつんと途絶えたときに、こちらの耳がぴくんと動く。 こういう句を見ていると、蕪村は耳の人でもあったなと思えてくる。 そうなのだ、蕪村は案外に耳の人なのである。 雲裡が再興した幻住庵に暁台が旅寝をしているところに蕪村が寄ったとき、蕪村は「丸盆の椎に昔の音聞かむ」と詠んでいる。 暁台の言葉も丸盆の椎の木目も、蕪村には音なのである。 耳なのだ。 大坂の松濤芙蓉花を訪れたときは詞書きを「浪花の一本亭に訪れて」として、「粽(ちまき)解いて蘆吹く風の音聞かん」と詠んだ。 蕪村は耳を注ぐ。 耳を傾けるのではなく、注ぐ。 秋の句ではないが、「うぐひすの二声(ふたこえ)耳のほとりかな」や「うぐひすや耳は我が身の辺りかな」があった。 鴬が耳に、耳が鴬になっていて、その耳と鴬のあいだの僅かな消息が動いている。 その消息を聞く。 そこには「耳のほとり」「耳のあたり」という微妙の界域がある。 蕪村が耳の人だと思えたのは、このときだった。 左脳でコオロギを聞いている日本人とかというケチな話ではない。 これはレオノーラ・カリントンの『耳ラッパ』なのである。 一般には蕪村は目の人だと思われてきた。 そう、むろん目の人である。 ただし、この目にはいろいろの目がある。 多様極上の目の人なのである。 耳の蕪村が耳を注ぐのに対して、目の蕪村はゆっくりと全景をうけとめる。 大きく見て、じっと捉える。 あるいは較べる。 この大きい目が捉えた句は他の俳人の追随を許さない。 この大きさは、「菜の花や月は東に日は西に」や「さみだれや大河を前に家二軒」で知られてきたように、子供でもすぐわかる。 その大きさにたまげる。 『山家鳥虫歌』に「月は東に昴は西に、いとし殿御は真ん中に」という俗曲があるけれど、まあ、そのくらいだろう。 大河に吸いこまれるように降りつづける細い雨の全景に、二軒の家を配した者も、いなかった。 これはそのものだ。 しかし蕪村は、この大きさの肯定で終わるのではない。 同じ菜の花や五月雨の印象を別のものにも変えていく。 蕪村を知るには、むしろその変化も感じることである。 たとえば、こうである。 菜の花や鯨もよらず海暮れぬ さみだれや名もなき川のおそろしき 鯨のいない海。 名前がついていない川。 ここにはいわば「不在の大きさ」や「」が見えていて、さらにたまげる。 蕪村にとっては、大きさと小ささ、遠さと近さは同じ目に写る世界なのである。 存在と不在は同時に見えるものなのだ。 ここには「負の蕪村」がいる。 この「負の蕪村」こそがぼくが最近になって強調している蕪村なのであるが、そのことについてはここではふれないでおく。 『山水思想』に指摘した「負の山水」についての見方を読んでもらいたい。 一言だけいっておくと、ぼくはかつて、「凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ」に接したときに、一切を了解できたのだ。 つづいて、この句とともに次のような句をノートに抜き出して並べて、またまた深い溜息をついたものである。 そのノートをさきほど引っ張りだしたら、こう、並んでいた。 凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ 秋の空きのふや鶴を放ちたる 月天心貧しき町を通りけり 欠けて欠けて月もなくなる夜寒かな 第1句。 空を見上げても何もない。 けれどもその空のあのあたりに、いや、そこに、昨日は凧が上がっていた。 それが「きのふの空のありどころ」である。 第2句。 空を見ていると青空が広がっている。 けれども昨日は、この空の只中に一羽の鶴が悠々と放たれていた。 これが前2句の「」というものだ。 後2句は、もう少し手がこんでいる。 第3句が、ここには月光すべてがあからさまなのに、その月の光を浴びている町は何も答えていないという感興であり、第4句は、今夜は新月なのに、数日前からそこには月が欠けていって、いまさっきその月が欠けきって、心に染みるような夜寒だけが残ったという感興。 これらは「負の存在の詠嘆」である。 「負の視像の存在学」である。 こういう句は蕪村にしか作れない。 大きい蕪村に驚いてばかりいてはいけない。。 また秋の句にしておくが、たとえば萩と、山と、雨、である。 また、咲き乱れる萩を包む景色のことである。 そこを蕪村は「雨の萩山は動かぬ姿かな」「白萩は咲くより零す景色かな」というふうに詠む。 カメラがまわってきて、萩や菊にすっと寄る。 そこで、「雨の萩」「山は動かぬ」「その姿」「かな」というふうに詠む。 この詠み方もまた蕪村の独壇場なのである。 同じく秋の句、「秋風の吹きのこしてや鶏頭花」「秋風のうごかしてゆく案山子かな」「阿武隈や五十四郡のおとし水」など、蕪村の目がカメラの落とし水になっている。 気をつけるべきは、。 それもウツリの手法である。 こういうときは寄ってからの細部だけで勝負する。 そうしておいて「寄り」の次に見えてくる意外というものを、ふいに詠む。 次のような秋の句はどうか。 「蘭の香や菊よりくらきほとりより」「葛の葉のうらみがほなる細雨(こさめ)かな」。 目の人は菊の葉の暗みよりも蘭の奥の闇の群に目をつけたのだ。 蘭や菊や葛の「ほとり」や「あたり」に目をつけたのだ。 まったく蕪村の目は(まさに暗箱)なのかと思いたくなるばかりだ。 夜色桜台雪万家図 蕪村筆 いつのころだったか、松村月渓の『蕪村遺芳』を見ていたら、蕪村は眼鏡をかけていた。 最初にこれを見たとき、へえ、そうだったのかと思った。 月渓は松村呉春のこと、俳諧はむろん、絵のほうでも蕪村の弟子だった。 さすがに蕪村を生き生きと描いている。 他にも禿頭剃髪や頭巾姿の蕪村の肖像画はあるが、呉春にはおよばない。 画題に「於夜半亭月渓拝写」とある。 蕪村は頭巾をかぶってちょっと猫背、どこかを想わせる風貌だ。 それで眼鏡をかけている。 俳人というよりも、薬屋の主人という印象だ。 本書を編んだ藤田真一の『蕪村』(岩波新書)では、蕪村は150センチくらいだったろうと想定されている。 小柄だったのである。 が、この丈(たけ)こそは蕪村にふさわしい。 こういう蕪村が関西に出身して江戸に出て、そのうち目を及ぼす人となり、耳を注ぐ人となり、そのうち京都に落ち着いて眼鏡をかけ、ちょっと猫背の人になっていった。 それをおもうと、我が身の修行の不足をかこちたくなってくる。 蕪村は俳諧においても俳画においても、交友においても、準備をおさおさ怠らなかった人である。 でなければ、あんな蕪村は生まれない。 ただ、その準備を見せなかった。 そのため、どうも蕪村はほんわりと受け取られたままになっている。 苛酷な修行などそこから毫も感じられなくなっている。 また、経緯を書き残さなかった人でもあったため、芭蕉の人生が知られているわりには、蕪村の人生はまだ日本人の「耳のほとり」や「目のくらやみ」まで来ていない。 それに気がついたのはだったが、子規以降、数々の蕪村論が書かれてきて、もう書くことなどきっと出尽くしたろうと思えるほどなのだが、いやいや、どうもそうでもないのである。 なんだかみんながみんな蕪村を書きこみすぎて、日本人一人一人の蕪村がもっさりしてしまったのだ。 ここに『蕪村全句集』をあげたのは、そういう蕪村の句を四季に分け、季題に振っていて、かつ最小限の校注を付してあるのが、おそらく蕪村をゆっくり読むのに最も適確な編集ではないかとおもわれるからだ。 歳時記の分類ではなく、古今集以来の部立になっていて、流し読みしていると、蕪村が何をどのように発句にしてきたかが見えてくる。 岩波文庫などでいったんは蕪村を時代順に読んできた読者が、さてもう一歩踏みこみたいというときの一冊にふさわしい。 版元の「おうふう」は国文学に強い桜楓社のことで、最近になってこんな社名にしてしまった。 桜楓社のほうがずっとよい。 芭蕉が元禄にさしかかって生きたように、蕪村が宝天(宝暦・天明)にさしかかって生きたことは、蕪村の準備を知るにも重要だ。 蕪村はに大坂の郊外だった毛馬に生まれて、天明3年(1783)に没した。 吉宗が将軍に就いてから田沼意次の絶頂期までだった。 世に宝天文化とよばれる元禄にも化政にもまさる爛熟期の前半に当たる。 20歳で江戸に出た。 書生になってついたのが師匠の早野巴人で、巴人は俳諧結社「夜半亭」を営んでいた。 巴人は宋阿とも号した。 そのころの蕪村は宰町ないしは宰鳥。 ちょこまかと師匠の世話をした。 けれども巴人は5~6年後の67歳で没し(寛保2年)、蕪村は師を失った。 それが27歳である。 このあと蕪村がどのようにしたかというのが、蕪村の遍歴のスタートになっている。 ここまでの蕪村は巴人についたとはいえ、俳諧師ではない。 最近の研究でだんだんあきらかになってきたように、浄土宗の下っ端の僧体にいた。 一応は俗塵を払うつもりの青春をおくってきた。 これに対して、。 ということで、巴人が死んで夜半亭が閉じられたというのは、わかりやすくいえば蕪村が食いっぱぐれたということなのである。 しかし蕪村はこれを機会に遊行に向かった。 いつたん自分の拠点を捨てることにした。 潭北の供をして上野国あたりをめぐり、そのあとは東北などに遊んだ。 『新花摘』にそのへんのことがごくあっさりと綴られているが、ようするに27歳から36歳くらいの十年ほどをゆらゆらと遍歴していたのだ。 これは蕪村の呑気のように見えて、実は、蕪村畢生の用意周到な武者修行だった。 『賤のをだ巻』には、点者(俳諧の宗匠)になるには行脚をして万句をものしなければいけないと書いている。 俳諧師としての悠然たる通過儀礼だったのだ。 目の人となりえたのも、耳の人ともなったのも、この十年の通過儀礼の成果にかかっていた。 蕪村が本格的な俳諧師になっていった事情には、もうひとつ大きく絡んでいたことがある。 寛保3年(1743)が芭蕉の五〇回忌にあたっていたということだ。 各地でさかんに追善法要や追善句会や句集の編纂がおこなわれていたのだが、これをきっかけに全国的な芭蕉ブームともいうべきがおこっていく。 蕪村が武者修行をあらかた終えたら、そこは「」で満開になっていたという風情なのである。 とりわけ明和7年(1770)の『奥の細道』再版と、安永4年(1775)の芭蕉『去来抄』『三冊子』の初めての出版が大きい。 芭蕉の「言ひおほせて何かある」「高く悟りて俗に変えるべし」は、これで初めて世に伝わった。 「松のことは松に習へ」もここで初めて世に知られた。 「不易流行」は流行語にすらなった。 そればかりか明和8年には江戸深川に芭蕉庵が再建され、大津には幻住庵が再興された。 そこへ暁台が止宿していると聞き、そこを訪れた蕪村が詠んだのがさきほどの「丸盆の椎に昔の音聞かむ」だった。 こうして蕪村は芭蕉の研究に入っていったのである。 これが第二の武者修行だったろう。 奥州一円も歩いた。 江戸文化というものは、このように何度かの再生と復活によってやっと定着したものである。 光琳だって百年後の酒井抱一でやっと定着した。 そこは鎖国の強みでもあった。 蕪村の転回は36歳あたりにある。 宝暦元年(1751)に蕪村は中山道を通って上方に向かう。 ただ故郷(大坂)には向かわない。 京都に入って知恩院の一隅に足をとめ(浄土宗だったから)、つづいて巴人の弟子の長老・望月宋屋に伺い、そこから洛中洛外の寺々を丹念に歩いた。 こうして4年ほどを京に暮らして、それから丹後に赴き、数年を丹後・丹波・若狭・越前に遊行して、宝暦7年に京都に戻った。 このとき蕪村は「与謝」を名のる。 よほど丹後の地や与謝の景色が気にいったのである。 丹後遊行は俳諧よりも、おそらく俳画修行のためだったとおもわれる。 この姓名揃った「与謝蕪村」がいよいよ俳諧師として動き出したのが明和3年(1766)だった。 大祇・召波・自笑・鉄僧らを連衆とした「三菓社句会」である。 大祇は島原の郭に住み、召波は服部南郭に学んだ漢詩人、自笑は版元「八文字屋」の3代目、鉄僧は医者である。 ぼくはいま未詳倶楽部や上方伝法塾や連塾などという「塾」や「連」や「部」を組んでいるが、これらを始めるとき、いつも思い出すのが、この蕪村の京洛での活動開始の場面だった。 蕪村も覚悟して、このときから夜半亭を営むことにした。 その後の蕪村がどのように動いたかは、18世紀の。 蕪村はその中心にいたわけではないが、かならずそのどこかに席を占めていた。 また、そのどこかにかならず、頼山陽や池大雅や木村蒹葭堂や売茶翁がいた。 そういうことについては、いつかまたふれてみたい。 こうして蕪村はいっさいの準備を終えて、与謝蕪村を演じきれたのである。 眼鏡もかけることになる。 ここで注目するべきは、蕪村がよけいなテキストを書かなかったことである。 蕪村のテキストは芭蕉でよかったからである。 これは織部がつねに利休百カ条をもって大胆な試みに挑んでいったのと、よく似ている事情(計画)だったように思われる。 ところで、ぼくの蕪村についての印象や感想は、年々とはいわないまでも数年毎に変わってきた。 それだけ蕪村が深いということであり、ぼくがいつも蕪村の全貌が見えず、のべつ驚いてきたということでもある。 最初の蕪村との出会いは母が教えた牡丹の句であった。 句会のあと、母が蕪村の牡丹を教えてくれたのだ。 その子供時代のいきさつについてはすでに『遊学』(存在と精神の系譜)に書いたことなのでここではくりかえさないが、ともかくぼくの蕪村は牡丹の句に始まった。 牡丹散りて打ちかさなりぬ二三片 閻王(えんおう)の口や牡丹を吐かんとす 地車のとどろと響く牡丹かな 寂(せき)として客の絶間の牡丹かな 散りてのちおもかげにたつ牡丹かな 山蟻のあからさまなり白牡丹 いまもなお、すべて絶品であると思っている。 牡丹の句はいまなお誰も超えられまい。 もし何かを思い浮かべるなら、村上華岳の墨画の牡丹と、中川幸夫や川瀬敏郎の牡丹の立花くらいのものだろうか。 次にの『郷愁の詩人・与謝野蕪村』と稲垣足穂の『僕の蕪村手帖』『新歳時記の物理学』にゆさぶられた。 これで蕪村を本気で読むようになった。 父がもっていた潁原退蔵の『蕪村全集』が、ぼくの自主的な蕪村参内だった。 こんなわけなので、蕪村のこと、できれば1冊でも2冊でも長いものを書きたいと思っているのだが、ついついそのままになっている。 そのままになっているだけでなくて、蕪村に対する見方が数年毎に変わってきているため、なかなか踏ん切りがつかないでいる。 たとえば数年前に正木瓜村の『蕪村と毛馬』を読んでからは、またちょっと見え方が変わってきたのだが、まだ毛馬村にさえ行っていない。 蕪村は毛馬に始まり毛馬に結んでいる人なのである。 とくに『春風馬堤曲』はすべての蕪村の集約だった。 あんな漢詩俳諧交じりの作品は、もう誰も書けない。 かつて中村草田男が『春風馬堤曲』の漢文のところを片仮名まじりで書き下してみせたものだったが、それもいいが、なんといっても構想構成が断然である。 の日本史が到達した最高峰といっていいだろう。 だいたい蕪村の「蕪なる村」という俳号が陶淵明なのである。 蕪村は毛馬に発して毛馬の風として吹きつづけた人だった。 まあ、こういうことを心おきなくいつか書いてみたいのだ。 というわけで、今日はこのくらいにしておくが、このような蕪村について言っておきたかったことで、おととい大阪で話したことがあるので、それについて一言加えておわりたい。 老松通りに近い古びた大江ビルの地下にあるスペースである。 そこでおととい、ぼくは「本を過客として」という談話を頼まれた。 暑いなか、立見が溢れるような会になった。 いろいろ話したのだが、かつて蕪村に学んだことをそこに交えた。 本を「過客」として読む方法をあれこれ紹介してみたのだ。 そのとき蕪村の「ふたもとの梅の遅速を愛すかな」と「梅をちこち南すべく北すべく」をあげ、ここには2冊の本を同時に読んでいる蕪村がいるんだという例を出した。 いわば蕪村の「前後時間差攻撃」あるいは「異方同時攻撃」である。 一句の中に時の相違や時間の変遷や二つの時刻にまたがる現象の比較を詠むという方法。 これは読書の奥義にもつながる。 そういう話をした。 典型的な句を3句あげておく。 「青墓は昼通りけり秋の旅」「名月やけさ見た人に行きちがひ」「きのふ花翌(あす)をもみじやけふの月」。 最後の句など、高速である。 読書というものは、このように「一冊の菜の花」に前後を感じ、四方を動かすことなのである。 そして「過客」としての高速運転に入ることなのだ。 蕪村、もっと知られるべきてある。

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与謝蕪村とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や俳句、作品についても紹介】

与謝野蕪村 菜の花や

菜の花や月は東に日は西に 俳句の読解はこちら その1 その2 とあります。 俳句の解釈文 解釈文についても触れておきましょう。 「菜の花や月は東に日は西に」の句の場合、ミクロ的世界をつくりだしていく言葉、主語となる「菜の花」、「月」、「日」がキーです。 キーの意味・内容の作り方は、たとえば「日」はどのような「日」なのか、その「日」はどうしているのか、といった具合にして形づくっていくんです。 この句で「月」と「日」の世界を結びつけ、雄大なマクロ的世界を成り立たせているのは、「菜の花」でした。 解釈文では、この「月」と「日」と「菜の花」の関係性を示すことになります。 下の 図を確認してください。 「日」からの矢印も、「月」からの矢印も、「菜の花」に向いていますね。 関係しているということです。 意味のつながり方、係り受け、そういったものがキーとキーの関係性です。 俳句の中の言葉は、意味の上でつながり、一つの世界をつくっています。 解釈文でもそれを示すんです。 意味の連続性が世界の成り立ちです。 「西」の「日」と「東」の「月」は、時空の広がりです。 そして、沈む「日」に対して、昇る「月」は始まりです。 この「月」を解釈文の最後に記すことによって、俳句で示された一瞬と永遠という時間も示すことができます。 完成している俳句の意味(世界)を壊さなければ、解釈の際、ミクロ的意味の世界の語順を入れ替えても問題ありません。 五七五という定型俳句と散文では、語の置き方、書き方が違いますから、ミクロ的世界を入れ替えたほうが、むしろ自然な散文の形、書き方になるともいえます。 上の図の解釈文の「菜の花」の下で、読点(、)を打っても、句点(。 )を打っても、指示語を記しても、記さなくても、意味は一旦切れます。 しかし、(日本語の書き方の)上から下へという流れがありますから、意味はそこで終わることなく続き、一つのマクロ的世界の完成へと通じます。 (ここでは、横書きですから、左から右へになってしまっています。 ) これは、俳句の意味の世界が壊れていない、解釈文に俳句の意味が明確に示されている、ということの証 あかし でもあります。 俳句では、「菜の花」の下に切字の「や」がありましたよね。 完成した俳句の世界、その意味・内容を、瑕疵のない解釈文、散文の形で表そうとすれば、それは自ずと通じる書き方になるんです。 型 かた は違えど、俳句と解釈文の表す意味・内容は同じだからです。 どちらも日本語という言葉の意味の世界を表しているからです。 これは、当然といえば当然のことなんです。 古文、漢文もそうでしょう。 日本語という言葉は、意味・内容を持った形なんです。 意味、世界の完成された俳句十七文字の中で、重要でない文字など一字もありません。 これは完成された散文でもいえることです。 無駄な文字など、そこには一字たりともない。 具体例にしても、データにしても、必要だからこそ記すんです。 もし、無駄な文字がある、足りない文字があるとすれば、それは意味、世界が完成していない文章ということなんです。 主な著書に「大人の『読む力』」、「ついざき式 本当の読解力を身につける50の方法」、「現代文〈評論〉の読み方」、「現代文〈小説〉の読み方」。 著作は、すべて商業出版(企画出版)です。 読み方(読解力)書き方、そして、おすすめの映画 対崎正宏 official web site内を検索 検索: 検索 上の記事を種種の言語に翻訳して読めます。 An upper article is translated into various languages, and it can be read.

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与謝野蕪村 菜の花や

「菜の花や 月は東に 日は西に」 これは1774年、江戸時代中期の俳人・ 与謝蕪村 よさぶそんによって詠まれた一句です。 一面に咲いた菜の花畑を、沈んでゆくオレンジ色の夕日が鮮やかに照らし、一方で月の昇り始める様子も薄っすらと見えている…そんな情景を表しています。 この菜の花を主役にした一句は、蕪村の作品の中でも特に有名なもの。 そして代表作と呼ばれているように、蕪村の詠む俳句には、この句と同じく絵画のように情景が浮かび上がってくるものが多いです。 俳人であると同時に画家でもあった蕪村。 その性質が作品によく表れているといえます。 今回はこの菜の花の句を切り口に、松尾芭蕉や小林一茶と並ぶ俳句界の巨匠・与謝蕪村の世界を覗いていってみましょう。 与謝蕪村 出典:Wikipedia 冒頭で紹介した菜の花の句にはもちろんちゃんと舞台があります。 「菜の花や…」は、蕪村が摩耶山を訪れた際の一句 現在の兵庫県神戸市灘区にある、 六甲山地の摩耶山に蕪村が訪れた際、目にした光景を表したものです。 このとき蕪村は京都に住居を構えていました。 年齢も59歳を迎え、若いころのように遠出はしなくなっていますが、関東・東北・四国など各地を渡り歩いた彼にとって、同じ関西圏の神戸を訪れることは、ちょっと遊びに出る程度の感覚だったことでしょう。 そして当時の神戸市灘区では、菜種油の生産が盛んで、 菜の花畑が一面に広がっていました。 蕪村はそんな菜の花畑を山の上から見下ろし、同時にやってきた夕暮れに魅了されたのです。 ちなみにこの句が詠まれたのは5月に入ってからのことですが、菜の花が咲くのはだいたい4月のこと。 蕪村は神戸方面への小旅行を終えた後、その旅路を振り返るかのように、菜の花の句を詠んだのだと考えられます。 蕪村は菜の花が好きだった どうやら蕪村は神戸市灘区の菜の花畑が大層お気に入りだったらしく、他にも菜の花を題材にした句を多数残しています。 冒頭で紹介したものと似たニュアンスの句なら… 「菜の花や 摩耶を下れば 日の暮るる」 というものがあります。 この句は前述のものより前に詠まれたものなので、蕪村は夕日に照らされた菜の花畑をもう一度見たいと思い、1774年の春にまた摩耶山へ向かったのかもしれません。 また摩耶山山頂付近の展望台から見える夜景は、日本三大夜景のひとつにも数えられ、蕪村の句にも、神戸港を望むその景観を表したものがあります。 「菜の花や みな出はらいし 矢橋船 やばせぶね」 当時は現代のような街灯りに彩られた夜景ではありませんが、それもまた菜の花畑と、その奥に見える海のコントラストが美しかったのだろうな…と感じられる一句ですね。 情景を描写する蕪村の俳句 菜の花の句のほかにも、蕪村の印象的な句をいくつか紹介しておきましょう。 馬下りて 高根のさくら 見付けたり 菜の花と同じ、春の一句。 桜の花を季語として使うのはありがちかもしれませんが、それを粋に感じさせるのが 「馬下りて」という部分です。 これは満開に咲いた桜を表しているのではなく、 微かに芽吹いた桜を見付けた小さな喜びを表したものでしょう。 何気なく通りかかった道で、山の上のほうに桜が芽吹き始めているのを見付け、馬を下りてその光景に見入る…といったところでしょうか。 さみだれや 名もなき川の おそろしき ここまで紹介した句は、美しさや朗らかさを表したものでしたが、この句は一変して自然の恐ろしさを表しています。 降りやまない雨に、普段はなんの変哲もない川さえも脅威となり得る… 洪水の対策などもまだまだ行き届いていない江戸時代の背景も垣間見える一句ですね。 待ち人の 足音遠き 落葉かな 秋から冬の変わり目を表したような一句。 「肌寒い季節になってくると、急に人肌恋しくなってくる」 などとよくいいますが、ひょっとして蕪村ほどの俳人であっても、その感覚は同じだったのかもしれません。 実は蕪村はイメージに反して恋愛体質なのです。 妻子をもちながら芸者遊びに夢中になっていたなどという話も。 人の琴線に触れる作品を残そうと思うと、ある程度の遊び心は必要…ということでしょうか。 きょうのまとめ 菜の花の一句を辿っていくと、当時、摩耶山の麓に一面、菜の花畑が広がっていたこと、晩年、京都に腰を落ち着けたといっても、蕪村の旅好きが健在だったことなど、さまざまな要素が浮かび上がってきます。 やはり俳句のような作品には、その人物が何を見たのかと同時に、人物の人となりが垣間見える部分があるものです。 そう考えると伝えられている逸話以外のことも、作品を通して想像していくことができそうですね。 最後に今回の内容を簡単にまとめておきましょう。

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