夏が始まったあいつが来た 歌詞。 夏が来た! 渡辺美里 歌詞情報

Eric Nam、ドラマ「あいつがそいつだ」のOSTに参加…「Count On Me」公開と同時に熱い反応

夏が始まったあいつが来た 歌詞

作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助 1 卯 (う)の花の匂う 垣根 (かきね)に 時鳥 (ほととぎす) 早 (はや)も来 (き)鳴きて 忍 (しの)び音 (ね)もらす 夏は来ぬ 2 五月雨 (さみだれ)の 注 (そそ)ぐ山田に 早乙女 (さおとめ)が 裳裾 (もすそ)濡 (ぬ)らして 玉苗 (たまなえ)植 (う)うる 夏は来ぬ 3 橘 (たちばな)の薫 (かお)る 軒端 (のきば)の 窓近く 蛍 (ほたる)飛び交 (か)い おこたり諌 (いさ)むる 夏は来ぬ 4 楝 (おうち)散る 川辺 (かわべ)の宿の 門 (かど)遠く 水鶏 (くいな)声して 夕月すずしき 夏は来ぬ 5 五月闇 (さつきやみ) 蛍飛び交い 水鶏鳴き 卯の花咲きて 早苗 (さなえ)植えわたす 夏は来ぬ 《蛇足》 明治33年(1900) に『新撰国民唱歌二 』に掲載されました。 明治時代の唱歌の作詞者には、子どもにわかりやすい言葉を使うというおもんぱかりは、ほとんどなかったようです。 佐佐木信綱は、三重県鈴鹿市出身の著名な歌人・国文学者で、息子の治綱、孫の幸綱も、歌人・国文学者として多くの業績を上げています。 1番~4番には初夏のさまざまな風景が描写されていますが、5番はその総集編といったところで、少々手抜きの感じがします。 たぶん、曲が先にできていて、それに当てはめるように作詞していったものの、5番に至ってよいアイデアが浮かばなくなったのでしょう。 各聯の歌詞は、「五月雨に裳裾濡らして植うる田を君が千歳のみまくさにせむ」 栄華物語) 、「橘のにほへる香かもほととぎす鳴く夜の雨に移ろひぬらむ」(万葉集) などの古歌や、「蛍雪の功」といった中国の故事が発想源になっているようです。 1番=「卯の花」はウツギの花。 「匂う」は、この言葉の古い用法で「鮮やかに映えている」という意味。 「時鳥」はカッコウ科の鳥の1つ、ホトトギスのこと。 カッコウより小形ですが、カッコウと同じく托卵(ほかの鳥の巣に産卵して雛を育てさせること) します。 漢字では、時鳥のほか、杜鵑・霍公鳥・子規・杜宇・不如帰・沓手鳥・蜀魂などいろいろな書き方があります。 「忍び音」は、旧暦四月頃の渡来初期に聞こえるホトトギスの鳴き声。 鳥の鳴き声には地鳴きとさえずりがあります。 地鳴きは平常の鳴き声で個体間の信号であり、さえずりは繁殖期における雄の縄張り宣言や求愛の鳴き声(したがって雌は常に地鳴き)。 渡来初期には、個体数が少ないため、古人は密やかに鳴いていると感じたのでしょう。 2番=「五月雨」は陰暦の5月、今の6月頃に降る長雨、すなわち梅雨のこと。 昔は水の豊かな6月に田植えをするのが普通でしたが、現在では、栽培技術が進歩したためか、温暖化のためかはわかりませんが、5月に田植えをするところが多くなっています。 「早乙女」は田植えをする女という意味で、若い女性とはかぎりません。 最初は賤の女 (しずのめ)(身分の低い女) となっていましたが、のちに早乙女に改められました。 「裳裾」は着物の裾。 「玉苗」は早苗と同じで、稲の苗を美しく表現する言葉。 3番=「橘」は古代日本の柑橘類 (かんきつるい) の総称で、その名前は「立ち花」から来たとも、田道間守 たじまもり の名に由来するともいわれます。 田道間守は、橘とされる非時香菓 (ときじくのかぐのこのみ) を常世 (とこよ) の国(新羅 〈しらぎ〉とも) からとってきたという伝説で有名です。 「軒端」は屋根が建物の外部に差し出た部分の端。 屋根の下端。 「おこたり諫むる」は、怠けてはいけませんよと忠告すること。 4番=「楝」はセンダンの古名。 センダンはセンダン科の落葉高木で、その実は漢方薬に使われます。 香木のビャクダンをセンダンということもありますが、これは別の種類です。 「宿」はここでは家の意味。 「水鶏」はツル目クイナ科に属する夏鳥の総称。 多くは夜行性で、戸をたたくような声で鳴きます。 5番=「五月闇」は、梅雨時の夜がとりわけ暗いことを表現した言葉。 ついでにいうと、「五月晴れ」は本来は梅雨の晴れ間のことですが、今では気候のよい5月の晴天を指すようになっています。 (二木紘三) おはようございます。 いつも[蛇足]からたくさんの知識を頂いています。 我が家の庭には今年も卯の花がたくさん咲き乱れました。 いつも「夏は来ぬ」の唱歌を口ずさみながら春から夏へ移り行く爽やかな季節を楽しんでいます。 美しい日本語の宝庫のようなこの詩に、今はもう失ってしまった「美しい国日本の故郷」を重ね懐かしんでおります。 事後承諾になりますがmyblogにフォーク&叙情歌をリンクさせて頂いています。 お許し頂ければ幸いです。 好みの曲が多くいつもBCMとして楽しんでいます。 中でも「池上線」を知りCDまで買ってしまいました。 曲もさながら心に沁みるいい詩でした。 ありがとうございました。 投稿: 2007年5月23日 水 08時56分 この歌を聴くと次のような事が浮かびます。 子供の頃、母方の祖母から白い洋服を着て、田植えをしたと聞いた事があります。 当時はこの話に興味はまったく無く、聞き流していたのですが最近、この種類かと思われる古い写真を見ました。 それは、すでに市町村合併で消滅した、鹿児島・旧 喜入町のホームページが国会図書館 インターネット資料収集保存事業に、保存されているのを昨年知りました、見たら昭和初期 女学生の田植え姿が有りました。 今となっては、なぜ白いワンピース姿なのか判りませんが、田植え(泥作業 と白い服(早乙女 の落差に興味が残ります。 投稿: Satoru 2011年6月 6日 月 22時13分 「忍び音」を辞書で調べると「ほととぎすの初音」と説明されていることが多いのですが、これは正しくありません。 古には、ほととぎすは五月(旧暦)の鳥で、五月になってから鳴くはずと理解されていました。 しかし実際には卯月4月(旧暦)から鳴き始めてしまいます。 そこで古人は、ほととぎすは五月が来るまでは自分の出番ではないとして、こっそり忍んで鳴くものと、人間の都合で勝手に理解していたのです。 そのことを示す古歌もたくさん残っています。 ですからほととぎすの忍び音とは、旧暦4月に鳴く声を意味しているのです。 初声が聞かれるのは旧暦4月ですから、忍び音を初音と説明しても、大きな誤りとは言えませんが、それでは「忍ぶ」ということの説明にはなりません。 作詞者は古典和歌をしっかりと理解していた人ですから、それを踏まえないと正しく理解できません。 そして、大きくなって意味がわかると新しい発見をした驚きと同時に、こんな難しい言葉を歌というリズムで自然に覚えたことに驚きと感謝のような気持ちになります。 先人の子どもに妥協しないやり方は、古典の教養を身につけさせるやり方としても、再評価する価値があると思います。 子どもの脳はリズムで覚えれば簡単に丸暗記できますものね。 現在の小学校・中学校の音楽の時間には、われわれの子供の時に習った唱歌がほとんどなくなっているようですが、日本の情緒・美風を伝える手段としても、再考すべきでなないでしょうか。 投稿: 吟二 2013年12月 6日 金 07時28分 古典文学の大家・佐佐木信綱先生(佐々木と書いてはいけないんですね。 なかなかデリケートな先生です)が、唱歌をてがければ、このような歌詞になるのか、という気持ちで、いつもこの歌をきいています。 薀蓄がなければ、この歌を正確に味わうのは難しいです。 昭和24年生まれの私は、はじめて唱歌「故郷(ふるさと)」を習った時、「うさぎ おひし かのやま~」を、兎(の肉}はおいしいのかなと思った世代です。 良い教材は、子どもにまず覚えさせるという方法は、古典文化の習得などに有効ではないかという、吟二さまのご意見に、私も同感です。 ただし、今の子どもは文語には縁遠く、教材を精選しなければいけないでしょう。 江戸時代の教育に「素読」というのがありました。 論語の一部などを丸暗記させる。 言葉の意味は、後からだんだんわかるという考え方です。 子どもの時に記憶された文章や詩歌は、その人の中で何度も反芻され、年齢とともに解釈や感慨も変化していく。 すぐれた教育方法だとおもいます。 ここからは蛇足を承知の上での意見でございます。 戦後の教育は「こどもを主体とした教育」「わかりやすい授業」という風潮で一貫しています。 もしこういう唱歌などの復活を提案すると、「大人主体の注入教育」「わかりにくい授業」という非難が十分に予想されます。 そこで「教わる時は難しくても、将来、花が開く授業だ」と説明しても、なかなか通じず、少数意見にとどまるでしょう。 あの「ゆとり教育」の推進論者、反対論者のやりとりをみてわかるように、「こどもを主体とした教育」云々は、政治的イデオロギーにもとづくスローガンです。 それゆえ唱歌を復活させようと言えば、「わかりにくい歌である」からはじまって、「時代錯誤」「戦前の教育に戻るのか」と言い立てる人がでてくるでしょう。 底の浅い反対論ですが・・ いつになったら教育が、政治にふりまわされないで語れる時代がやって来るのかと思います。 投稿: 浮舟 2013年12月 8日 日 22時38分 少し早いですが夏が近くなると私はよく「夏はきぬ」を口ずさみます。 この歌には忘れられない映像があります。 おそらく多くの方もそうではないかと思います。 1998年8月7に放映された「NHK特集 夏服の少女たち」です。 私は偶然これを視聴しました。 ビデオがありその裏には次の様に書いてあるそうです。 (引用初め)「昭和20年8月6日、広島の空で炸裂した原爆は20万人もの人々の命を奪いました。 そしてなんの罪もない大勢の若者たちも原爆の犠牲となったのです。 この朝、旧広島県立第一高等女学校一年生220人は学徒動員で市街の建物取り壊し作業に従事中被曝、全員が亡くなりました。 二年生以上の上級生は既に軍需工場に動員されていて不在、一年生は残された最後の労働力として爆心地間近で作業中だったのです。 この一年生が入学した昭和20年の日本は敗戦目前で物資が極端に不足していました。 せっかくのあこがれの女学校に入学したものの制服も手に入りません。 少女たちは母親たちのお古をほどいて夏用の制服を縫うことにしました。 そしてようやく完成した夏服を着た喜びもつかの間、少女たちは8月6日を迎えます。 この少女たちのアニメ物語と原爆でボロボロに燃えた少女の夏服を今なお形身として守り続けている年老いた母親たちのドキュメンタリーとを合わせて、忘れることのできない原爆の悲劇を感動的に描きます。 」 **(引用終わり) 夏服ができあがったとき、彼女たちは「夏は来ぬ」を歌わせてください、と先生にお願いします。 ビデオではアニメの効果も相まって14才少女たちの美しい「夏はきぬ」の合唱を視聴することができます。 この合唱をYOUTUBEで聴くことができました。 「夏はきぬ」は原爆の犠牲となった14才少女たちへの鎮魂歌でもありますね。 美しくてそして哀しいです。 投稿: yoko 2014年6月22日 日 09時17分 先日、本屋さんをぶらついていたら積んであった本に魅かれ、思わず購入してしまいました。 内容は大正15年11月の小山作之助先生の講話から始まっていました。 講話 国歌 「君が代」の由来について 講師 小山作之助先生 最後は小山作之助先生の作曲になる「夏は来ぬ」で締められていました。 私の家にはテレビがありません。 私はスポーツの趣味もなくスポーツ鑑賞することもないので、「君が代」は小中学校の学校行事で直立不動で歌っていたくらいの記憶しかありません。 最近youtubeでリオ五輪の「君が代大合唱や、その他「君が代」の斉唱を見て驚きました。 片手を胸に当てて歌っているんですね。 小池都知事もそうでした。 小中学校でもあのようなスタイルで歌うことになるのでしょうか。 それとももうそうなっているのでしょうか。 嫌だなぁ・・・。 「君が代」は世界に誇れる素晴らしい歌詞だと思いますが、曲調が暗くて厳粛すぎますね。 それに加えて片手を胸に当てて恭しく歌うなんて・・・。 嫌ですねぇ~。 私は、国花は桜、菜の花で・・・、国歌は、春の唄、緑のそよ風、夏は来ぬ、故郷、等の唱歌であったら良いなぁ、と思います。 「夏は来ぬ」も素晴らしい曲ですね。 小山作之助先生、ありがとう。 こんなに素晴らしい四季の唱歌に囲まれた日本に生まれてよかった、と思います。 投稿: yoko 2018年5月13日 日 23時34分.

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夏が始まった話|のん|note

夏が始まったあいつが来た 歌詞

ホームに降り立つと、セミがミーンミーンと大合唱をしている。 「暑い」と新幹線を降りた小さな女の子の集団が口々に呟き、わたしも額から吹き出る汗を拭った。 新幹線が駆け抜けるホームで、軽やかなレースのシャツやカラフルなワンピースがふわりと揺れる。 大きな荷物を抱えて小さな少女たちは、劇場へ向かった。 会場に到着すると、「ミュージカル アニー 名古屋公演」と大きな看板が掲げられていた。 ついにこの夏がやって来た。 ここでわたしたちの舞台が再び、幕を開ける。 揺れが心地よく、適度に涼しい車内と連日の稽古の疲れのせいか、いつの間には眠ってしまった。 次にふと目が覚めた時には見慣れない景色に驚き飛び起きて、電車を降りた。 ホームに降りると、そこには高尾駅と看板が出ていた。 ど、どうしよう…! 勝どきスタジオとは真逆の方向へいつの間には来てしまった。 東京駅からそのまま中央線が折り返して、終点の高尾駅に到着したのだろう。 慌てて緑の公衆電話を探して実家に電話を入れた。 「寝ちゃって…今、高尾駅着いた。 遅刻しちゃう…」 小学2年生のわたしはスタッフに怒られるとビクビク怯えていたが、母が機転を利かせてくれた。 「大丈夫よ、体調不良で遅れるって伝えておくから。 そのままスタジオに向かいなさいね、気をつけて行くのよ。 」 「ママ、ありがとう。 」 少しホッとしたのと同時に若干の罪悪感を抱えながら、勝どきスタジオへ向かった。 最寄駅から走って走って走った。 息切れをしながら、少し間を置いてスタジオの大きな扉の前で、そっと耳を当てた。 中からすでに稽古が始まっていて、大きな歌声が耳の奥へ響いてくる。 途端に緊張が走った。 恐る恐るスタジオの大きくて重たい黒い扉を開けた。 いつもより重たく感じた。 稽古をしている仲間を横目に小走りで世話役のスタッフの元へ向かった。 「遅れてごめんなさい。 」深々とお辞儀をする。 「全然平気よ〜!むしろお腹の調子はどう?」 母は腹痛を口実にして、スタッフに遅刻することを伝えていたのをその時言われて知った。 わたしは苦笑いをして、大丈夫ですと深くお辞儀をした。 今こそ演技力を発揮する場面なのに、口元はニヒル調だったかもしれない。 わたしの役柄はテッシー、泣き虫の弱虫役だ。 自分でもこの役はピッタリだと思っている。 ベッド組と呼ばれる モリー、ケイト、テッシー、ペッパー、ジュリー、ダフィは台詞や1人で歌うパートなどの役割を担っている。 主人公の アニーと一緒に意地悪な ハニガン先生と戦う同士達だ。 稽古は今回ベッド組の最初のシーンが行われていた。 モリーがペッパーに泣かされて、ジュリーが慰めていた。 わたしも途中から稽古に参加した。 素早く稽古場に置かれているベッドに潜り込み、ハニガン先生がやって来るシーンに突入した。 ベッド組の最初の見せ場は 「ハードノックライフ」だ。 重たいバケツとタワシとタオルを持って、ハイスピードでダンスと歌を繰り広げていく。 力強く小さな少女たちが負けずに生きていることを表現する大事なシーンである。 初めてダンスと歌を一緒に稽古した時は、しんどさや緊張で、冷や汗やら涙やら、身体中からありとあらゆるものが出ていたようだった。 芸能プロダクションに所属しているみんなは普段からの稽古で培った基礎がある。 その大事な基礎があるのと、ないのとでは差が歴然だ。 すぐ隣でライバルが踊っていて、同じ時間に同じ動作を繰り返しているのに、何かが違うのだ。 考えても小学校2年のわたしには到底、何からどう改善したらいいのかもわからないし、それ以前に必死についていくだけで精一杯だった。 稽古の時は全員ラジカセを用意する。 それは稽古中の全ての会話を録音して、復習するために使用する。 わたしは録音したテープに入っている音楽を使用して、ダンスの練習を自宅でよくしていた。 ドシン!という大きな足音はきっと下層の住民のいい迷惑だったかもしれない。 そんなことを考える余裕もなく、日々練習に明け暮れた。 ダンスのフリだけはせめて忘れないように、身体中に叩き込んだ。 当時の演出家は怖いことで有名な 篠崎先生。 稽古場は戦場だ。 毎日必ず誰かが怒鳴られ、必ず誰かが号泣していた。 ハードノックライフのパートを一人で歌とダンスをみんなの前で順番にやらされた事があった。 1人ずつ披露して、先生が気になる箇所があれば、容赦無く音楽を止められ、怒鳴られた。 そしてまた最初から踊るように指示される。 その光景を全員がそっと見守る。 見守りつつも、次に誰が指名されるかわからない緊張感に包まれながら、待っている間は振り付けを復習したり、歌詞を間違えないように暗唱していた。 そんな中、Aちゃんが緊張のあまり振り付けを忘れてしまったようで、困惑の表情で立ち尽くした。 途端に篠崎先生が音楽が止める。 「 … あなた、今まで何をやってきたんですか!!!」 篠崎先生はいつも敬語で丁寧に話しかけてくれる。 それはきっとどんな小さな女の子にでも対等に接し、敬意を払ってくれているのだろうと思っていた。 だが、怒られる時、怒鳴られる時の敬語は、まるで雷や拳銃で撃たれるような衝撃波を纏っていた。 敬語であればあるほど、丁寧に話しかけられるほど、それはそれは恐ろしかったのだ。 「はい、次、寺島さん」 わたしは目を見開いた。 なんで、こんな空気が凍りついた後にわたしの番なの??? 困惑しうつむきながら、恐る恐る最初の立ち位置へ向かう。 しかし、あまりの緊張で立ち位置を確認することが慎重になり過ぎたせいで、もたついてしまった。 その気配を察知して、篠崎先生がつかさず怒鳴った。 「あなたもわからないのですか!?」 「 いいえ!!」かぶり気味に急ぎで大声で答えた。 立ち位置は演出家やスタッフたちがの足元の方に印がつけてあるので、全ての踊りの立ち位置が決められている。 場所を移動して踊っていても、次にどこの位置から踊り出すのか、全て細かく指定されていた。 「いいですね?」 「はい!!」 音楽がスタートした。 最初は勢いよく両手で持ったバケツを床に叩きつける。 バケツを振り下ろすタイミングは音をしっかり聞き取り、自分のタイミングはあらかじめ決められている。 モリー、ケイト、テッシー、ペッパー、ジュリー、ダフィ、アニーの7回と、最後にバケツの中に入れているタワシをキャッチして、最初のフリを決める。 「負けやしないわ!」 緊張の最初の出だしは大丈夫だ。 声も出ているし、震えていない。 先生からもストップされない。 やれる。 大丈夫だ、きっとやれる。 「この家さえ沈んじゃうー!」 終盤疲労がピークになる頃、タオルを振り回して高速でステップを踏むパートがある。 高くあげた足の間にタオルを交差させて、必死でタオルを落とさないように最後の全力を出し切った。 ここでタオルを落とすと、怒鳴られ最初からやり直しだ。 しかし、わたしにはもうその体力と気力は残っていない。 息遣いが激しくなり、唾を飲み込むのもいっぱいいっぱいだ。 踊りながら、全力で歌うってなんてハード競技なんだろう。 しかも、ステップを踏むと、確実に歌声はビブラートを響かせたように震えてしまう。 だが、決して震えさせてはいけない。 腹筋を駆使し、歌声を安定させる。 腹式呼吸をしっかりコントロールさせなければならない。 タオルを高速で操っている中で、いつも心の中のわたしが叫んでいた。 手足の隅々まで神経を尖らせろ。 音楽から1ミリも外すな。 ステップを返し、歌詞も音程も1ミリも外すな。 ごくごく当たり前のことだが、ダンス、音程、歌詞の間違いがあってはならない。 なぜなら、 わたしたちはプロだ。 舞台の上に立ち、お客さんの前に出るということはそういうことだ。 芸能プロダクションに所属せず、フリーのわたしにとって、「舞台に立つ」とはどういうことなのか。 当時、稽古を始めた当初は全く理解していなかった。 こんなに苦しい稽古を毎日積み重ね、何度も何度も繰り返す理由もわからず、苦しいけど、立ち止まれなかった。 しかし、はじまりがあれば、終わりがある。 無事に難関のパートが終わった。 ここを乗り越えば、あともう少し。 最後のフィナーレはベットの端から大きくジャンプをして、即側転をし、所定の位置で最後のポーズを決める。 息も絶え絶えになりながら、最後の力を振り絞る。 しかし、ここでわたし自身にもコントロールできない身体の異変が起こった。 最後の最後ベットからジャンプして、側転をした後に眩暈を起こして吐きそうになった。 吐き戻したくないから、必死にその場で堪えてうずくまってしまった。 すぐに音楽が中断され、世話役の人が介抱しに迎えにきてくれた。 情けない…身体に力が入らないまま、焦点も定まらず、誰が何を言っているかも聞こえない。 でも意識をギリギリ保って、ジッと待っていた言葉があった。 それは篠崎先生からの言葉だ。 もちろん、怒鳴られると覚悟をした。 でも、先生は何も言ってくれなかった。 怒鳴られて怒られる方がまだマシだ。 でも、同時にその凍るような緊張感から解き放たれて安堵したのも事実だった。 心底情けなくて悔しかった。 1人で踊りきれなかった。 あと少し、あと少しだったのに…わたしは失格だ。 お金をもらってお客さんの前に出るプロなんかじゃない。 こんなんじゃダメだ。 全然ダメだ。 廊下のソファで冷たいタオルをおでこに乗せられて、1人静かに泣いたのは一生忘れない。 声にならない言葉があちこちでこだましている。 壁という壁から反射して、わたしたちに目掛けて飛び込んでくる。 天井から無数のスポットライトが眩しくてかなわない。 明るく温かく包まれる光に、わたしは溶けて消えてしまいそうだった。 終わった。 長い、長いこの戦いが幕を閉じた。 終わるだなんて、始まった時は信じていなかった。 でも、今、確実に終わったのだ。 観客席を見ると全ての人影が立ち上がっていた。 歓声はお腹の底の底まで響いて、わたしの身体の中を駆け巡る。 細胞の隙間から毛細血管までの全てにまで入り込んでくるみたいだ。 熱くて、熱くて。 気付いたら、大汗をかきながら、目からも涙が溢れていた。 今、水分が身体からなくなったら困ってしまう。 さっきまで全力で手足の隅々を動かして踊り、腹から声出して歌ってきたのだ。 すでに全身の水が出されてしまったというのに。 拍手喝采。 拍手している音ってどう言葉で表現したらいいのだろう。 パチパチという音でなく、ザザァーーーっという大波が前方から押し寄せてくるみたいだ。 負けじと足元を踏ん張ってその波を全身で受け止めた。 全員で手を繋いで、大きく振り上げてお辞儀をした。 そして、静かに緞帳は降りた。 閉じないで…あと、少しだけ… もう少しだけ、ここにいたい 孤児院で暮らしていた小さな女の子たちは、確かにさっきまでここにいた。 でも振り返ると、舞台裏の誰しもが魔法が解けたように、元のわたしたちに戻っていた。 役者同士、そして裏にいたスタッフ、大道具さん、小道具さん、演出家のスタッフさんたち、みんなみんな泣きながら、抱きしめ合った。 時に大げんかをして、時には家族のような強い絆を抱き、同志になり、厳しい日々を一緒に乗り越えた仲間たちとの健闘を称えた。 もう1人のわたしとの別れは悲しさや寂しさでもない。 出会えた喜びや、「誰」かになることの尊さを感じた。 "わたし以外のわたし"との時間の1秒1分1時間が愛おしかった。 イタコのように誰かをわたしの身体に宿して過ごし、人間の感情や心理を学び続けた毎日に感謝した。 舞台の上では、わたしはテッシーだった。 でも、今この瞬間跡形もなく泡のように消えてなくなった。 ザザァァァーーーーーーーーー!!!!! ワァァァァーーーーーーーーー!!!!! 太陽が一番高いところでギラギラと輝いている光を見た時に、あのスポットライトのようにあの日の思い出が蘇る。 脳天をつんざくような音が遠く遠くで響いてくる。 もう2度と戻ってこないあの日に….

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カプリ島: 二木紘三のうた物語

夏が始まったあいつが来た 歌詞

松本隆は1985年の11月から12月にかけて、朝日新聞の夕刊で週1回『新友旧交』というコラムを8週にわたって書いていた。 そのときに「待ってくれた大滝」と題して、アルバム『A LONG VACATION(ロング・ヴァケイション)』が誕生したときの経緯を明かしている。 大滝詠一について語ろうとすると、もう十数年のつきあいになるのに、彼のことを何も知らないような気がしてくる。 そういえば彼から家族のこととか、身の回りの雑事について聞いたことが無い。 仕事以外のプライベートなことに関して口が重いのかもしれない。 一度だけ彼がぼくの家を訪ねてくれたことがある。 「今度作るアルバムは売れるものにしたいんだ。 だから詩は松本に頼もうと思ってね」 「よろこんで協力させてもらうよ」 後にミリオン・セラーになった『ア・ロング・ヴァケーション』は、こんな会話から生まれた。 (「待ってくれた大滝」朝日新聞1985年12月18日夕刊(「新友・旧交」欄) 『ロング・ヴァケイション』は当初、6枚のシングル盤をセットにした企画として、大滝の誕生日である1980年7月28日と発売日が決まっていた。 ところが制作が順調に進んで、歌入れが始まろうとしていた時期になって、病弱だった松本の妹が心臓発作で倒れるという出来事が起こった。 それは当時の大平首相が倒れた翌日のことだったが、松本の妹は偶然にも同じ病院の隣りの部屋に入院した。 大滝から作詞の依頼を受けていた松本は、急な事情を説明して他の作詞家を探すようにと、電話で連絡を入れた。 しかし、大滝はこう応えたという。 「いいよ、おれのアルバムなんていつでも出せるんだから。 発売は半年延ばすから、ゆっくり看病してあげなよ。 今度のは松本の詩じゃなきゃ意味が無いんだ。 書けるようになるまで気長に待つさ」 それから数日後、松本の妹は息をひきとった。 松本には妹の最期を病院で看取った後に歩いた渋谷の街が、色を失ってモノクロームのように見えたという。 精神的なショックから立ち直るまでには、それから3か月ほどの時間が必要だった。 その間、彼は何も言わずに待ってくれた。 あのアルバムの中の詩に人の心を打つ何かがあったとしたら、明るくポップなプールのジャケットの裏に、透明な哀しみと、それを支えてくれた友情が流れていたからだと思う。 『ロング・ヴァケイション』は予定より8か月も遅れて、1981年3月21日にCBSソニー移籍第1弾として発売された。 アルバムの1曲目を飾ったのはゴージャスで華やいだサウンド、明るいポップスそのものという印象の「君は天然色」である。 大滝は「君は天然色」について、後にこう回顧している この「天然色」の成功がなかりせば、『ロング・バケーション』 も、このCBSソニー時代も、輝かしいものにはならなかったであろうことを考えると、この曲には特別な感慨があります。 目の前が色を失って灰のように見えた世界から、松本が立ち直るきっかけとなったのが「君は天然色」だった。 その歌詞には妹への祈りが込められているかのようだ。 「君は天然色」 作詞:松本隆 作曲:大瀧詠一 くちびるつんと尖らせて 何かたくらむ表情は 別れの気配をポケットに匿していたから 机の端のポラロイド 写真に話しかけてたら 過ぎ去った過去 しゃくだけど今より眩しい 想い出はモノクローム 色を点けてくれ もう一度 そばに来てはなやいで うるわしの Color Girl かつての盟友だった松本隆と組んだという話題もあって、レコード店では永井博によるジャケットのイラストレーションを使ったポスターやPOPが、華々しくディスプレイ展開された。 夏までベストセラーを記録した『ロング・バケーション』 は、発売から5ヶ月後にアルバム・チャートで最高2位まで上昇した。 またアルバムと同日にシングル・カットされたリード・シングルの「君は天然色」は、後にロート製薬「新・Vロート」(1982年)に使用されて広まり、さらに21世紀になってもキリンビバレッジ「生茶」(2004年)、アサヒビール「すらっと」(2010年)のCMソングとなったことで、すっかり日本のスタンダード・ソングへと成長していった。 そしてアルバムとシングルのレコード発売日となった3月21日は、ナイアガラ・レーベルにとって大切な大滝詠一記念日になっている。

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