玄倉 川 水難 事故 その後。 飛騨川バス転落事故

玄倉川水難事故

玄倉 川 水難 事故 その後

: 日付 (昭和43年) 午前2時11分 JST 概要 観光バス2台がに巻き込まれ、に転落. 原因 による大規模な土砂崩れ 死亡者 95名: 遺体回収された人数 負傷者 3名 行方不明者 9名: 遺体未回収の人数 損害 岡崎観光自動車観光バス2台 賠償• 、特例で殉職した運転手を除く全遺族への自賠責保険支払決定。 、被害者遺族と主催者、後援、および岡崎観光自動車の計3社との間で総額4,090万円での補償案に合意、示談成立。 、被害者と国との行政訴訟、遺族側全面勝訴、国の補償金約4億円の支払いが確定。 飛騨川バス転落事故(ひだがわバスてんらくじこ)は、(昭和43年)に、のにおいて生じたによるバスである。 へ向かっていた15台のうち、岡崎観光自動車(のちに合併によりを経て現在は岡崎営業所となっている)所有の2台のバスが、に伴うに巻き込まれて、増水していたに転落し、乗員・乗客107名のうち104名が死亡した。 日本のバス事故史上における最悪の事故となった。 経緯 [ ] 以下、時刻は全て24時間表記とする。 概略については後述のを参照のこと。 犠牲となった観光バスの乗客は、での主婦を対象に無料新聞を発刊していた が主催し、が協賛した、「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」というツアーの参加者だった。 お盆休みの週末という日程と、からの御来光やのパノラマ、小京都と喧伝された飛騨の観光を手軽に楽しめる家族旅行向けの企画ということもあり、申し込み数は主催者側の予想を上回り、名古屋市内の団地を中心に750人以上が参加した。 は、依頼を受けた岡崎観光自動車だけでは調達しきれず、同社を中心に同業他社3社にも応援を要請し、合計4社から手配された。 予定では、名古屋市内の各団地でバスが乗客を拾い、の駐車場に21時30分に全車が集合し、休憩ののち22時に出発。 その後に入って飛騨川の沿いに国道41号を北進し、美濃太田()、、を経由して、翌朝4時30分に標高3000メートル近いで御来光を迎え、夕方に犬山へ戻り、各団地ごとに解散という流れであった。 車中泊を含む片道160の行程で、「定番コース」ということもあり、ベテランの運転手たちにとってはいわば通り慣れた道だった。 当時の天候 [ ] 現場付近の。 事故当時と道路幅は余り変わっていない。 山側も谷側も切り立っており、落石の危険がある道路でもある。 岐阜地方気象台は8時30分に大雨・洪水・雷雨 を発表していたが、午後に入って小降りになり、場所によっては晴れ間も見えてきたので、レーダー観測とも照らし合わせ、17時15分に注意報を解除する。 その後19時前に放送された天気予報は、岐阜県の天気は回復し翌朝は晴れる見込みだと報じた。 実際に翌朝の岐阜市内は晴天だったが、当時は気象衛星による観測が端緒についたばかりで、重大な気象の変化までは把握しきれなかった。 西側の沖合い400kmまで進んだ台風7号は、勢力を落としてとなった。 しかし、大陸に横たわる冷たい空気との間で生じたが東北地方から北陸・近畿を経て九州付近にのび、それに向かって太平洋上の高気圧から暖かい湿った空気が「」のかたちで入り込んだため、夜に入って岐阜県中部上空の大気は非常に不安定な状態となり、分水嶺南側を中心に直径数km程度の局地的かつ濃密なが多数発生しはじめる。 これをとらえたからの連絡を受け、気象台は20時に雷雨注意報を発表し、22時30分には大雨・洪水に切り替えた。 (現・美並町)で1時間雨量114ミリ、白川町三川小学校で100ミリ、そして奥美濃で149ミリの猛烈な雨が降り、過去の記録を大きく上回るとなった。 日付が変わる前後から、家屋の浸水や土砂崩れ、 - での線路崩落(復旧に1ヶ月近くを要した)が発生するなど、岐阜県内各地で被害が続出する。 ツアーを主催する奥様ジャーナル社長は、標高の高い地点に観光客を誘導するだけに台風の動きを気にしていたが、19時の予報を岐阜の気象台に電話で問い合わせた上で、予定通りツアーを決行した。 しかし、1時間後の20時に発表された注意報、さらに22時30分の警報は把握できなかった。 注意報が解除されたのは、17時15分から20時までの2時間45分に過ぎなかった。 携帯通信が発達した現代と異なり、当時はリアルタイムに気象情報を把握することは不可能で、車載のラジオも就寝中の乗客がいる夜間に流すことは難しい状況であった。 出発から予定変更まで [ ] ツアーの一行は、主催者の奥様ジャーナル社長らが乗った一号車を先頭に、十六号車まで15台(四号車は欠番 )の車列を連ねて22時10分ごろに犬山を出発した。 乗客725名、主催者・運転手・名鉄観光サービスの添乗員ら48名の、あわせて773名という大規模ツアーだった。 しかし、出発直後から雨が降り出し、警報が出た22時30分ごろに美濃加茂を通過したあたりから激しいに遭遇したが、23時33分には、休憩地である(現・)の76. 5km地点(名古屋市東区泉1丁目高岳交差点にある国道起点からの距離。 以下同じ)にある「モーテル飛騨」にほぼ予定通り到着する。 運転手たちにとっては勝手知ったる道で、悪天候でも問題なく走れた。 しかし、毎時50ミリ以上という猛烈な豪雨に加え、前方のの入口にあたる78km地点付近で土砂崩れが発生しているなど、道路状況が悪いとの情報が対向車から入ってきた。 主催者と添乗員・運転手たちが協議した結果、それ以上の北行を断念してツアーを1週間延期することとし、各号車の出発地まで引き返すことが決定された。 目的地まではさらなる状況悪化が予想されたため、通過してきたばかりの道路を引き返し、乗客をとりあえずは帰宅させるという判断だったが、結果的には最悪の危険地帯に進路変更することとなった。 帰路 [ ] 日付が変わり、8月18日の0時5分、岡崎観光自動車に所属する一号車から七号車を第1グループ、別会社の混成である八号車から十六号車を第2グループとし、15台のバスは激しさを増した雷雨の中で名古屋への帰路についた。 同18分には、10kmほど先の付近にある飛泉橋(66. 4km地点)を通過したが、ここで五号車の運転手が飛騨川の水位を警戒していた白川町第二分団に呼び止められ、前方は溢水や落石の危険があるとして、運転見合わせを勧告される。 しかし、まだ通行規制は敷かれていない上、一、二、三号車はすでに橋を通過していたため追尾することとし、六号車と七号車もこれに続いた。 一方、やや遅れて走ってきた八号車を先頭とする第2グループは、消防団の警告に応じて白川口駅前広場で待機し、深夜の豪雨をやり過ごした。 第1グループは、直後の65. 25km地点で小規模な崩落現場に遭遇し、運転手や添乗員がずぶ濡れになりながら土砂をスコップで除去した。 しかし、 を過ぎ、1kmほど進んだ64. 17km地点では大規模な崩落により道路が完全に寸断されていたため、やむなく白川口駅まで2kmほど戻ることにした。 ところが木材を積載した大型トラックが左車線を塞ぐ形で身動きが取れなくなっており、また大型バスでは転回不能な道幅であったため、やむなく一~三号車は右車線をバックして移動を開始した。 五号車が先頭になったものの、1時35分ごろには約600m後方の64. 8km地点でも土砂崩れが発生した。 これにより、6台のバスは完全に道路の前後を塞がれ実質的に移動不可能となり、周辺の車両と共に完全に立ち往生する。 雷鳴と稲光が続く中、各号車の補助運転手は車外に出てヘッドライトを外し、崖を照射して鉄砲水の警戒にあたった。 また、後方の様子を伝えるために三号車の運転手が先頭の五号車に向かい、六号車の運転手も対策を協議するため七号車に移動していた。 事故発生 [ ]。 ここから事故の第一報が伝えられた。 立ち往生から40分ほど経った2時11分 、64. 3km地点で、高さ100m、幅30mに渡る巨大な土砂崩れが発生した。 にして約250台分のが急斜面を滑り落ちて五、六、七号車を直撃し、七号車は1mほど横滑りしながらもガードレールに抑えられたが、五号車と六号車は15m下の増水した飛騨川へゆっくり転落していった。 乗務員たちが混乱する傍らで、立ち往生の車内で就寝している乗客も多かったが、大音響と震動に各号車の車内は総立ちとなり、特に大惨事を目の当たりにした七号車は騒然となった。 奇跡的に生還した五号車の運転手は、転落の瞬間に車内の子供たちが挙げた「アーッ!」という叫び声が耳から離れないと証言している。 六号車の運転手は七号車から自車の最期を目撃し、五号車にいた三号車の運転手は消息を絶った。 難を免れた運転手と添乗員たちは乗客を車外に誘導して安全確保に努め、このうち4人が救助を求めるため、複数の崩落現場をくぐり抜け、対岸にある上麻生ダム見張所に向かった。 見張所で当直にあたっていた発電所員は4人の要請を受け、直ちに通信線でダム本部に連絡するとともに、二次災害を防ぐために消防団員と共に残りの乗員・乗客や一般ドライバーたちを誘導し、見張所や水門機械室、資材倉庫に避難させた。 一報を受けた上麻生ダム経由でに通報が届いたのは、転落から3時間29分が経過した5時40分だった。 事故は朝のニュースで全国に速報され、世間の関心は飛騨川に集中した。 事故後 [ ] 水位零作戦 [ ]。 貯水を全てし捜索活動が行われた。 通報を受け、加茂警察署ほか4警察署、各地域の、さらには などが岐阜県から要請を受けて救助活動にあたるなど、捜索活動を側面支援した。 しかし、現場はにも指定されている名勝・の上流部にあたり、両岸が深く険しく切り立ったを形成していた。 100名を越す乗員・乗客の安否はもちろん、車体すら発見できなかったが、事故翌日の10時30分ごろ、転落現場から約300メートル下流で、五号車がタイヤを上に押し潰された状態で発見され、砂だらけの車内から3名の子供の遺体が収容された。 このほか転落現場周辺で23名の遺体が発見されたが、六号車や他の行方不明者は発見できなかった。 普段から飛騨川は日本有数の急流として知られるが、豪雨に伴う激しい流れにより救助活動は難航する。 しかし、行方不明者の家族は早急な車体回収と引き揚げ要請を行った。 これに応じて、上流にある名倉ダムも活用して上麻生ダムの放流を停止し、水が引いたわずかな時間を利用してまだ発見されていない六号車の捜索を行わせることになる。 上麻生ダム直下の飛騨川の水位をゼロにするということから「 水位零(ゼロ)作戦」 と名付けられた。 この「作戦」は、上流の名倉発電所が発電をしている限りは名倉ダムの満水到達時刻を遅らせられること、名倉ダムから上麻生ダム間の飛騨川はを繰り返すため洪水到達時間までおよそ一時間かかること、上麻生ダムのゲートが莫大なに耐えられる構造であるために可能な作戦だった。 しかし、上流で雨が降ればこの作戦は遂行できない。 「水位零作戦」は21日深夜、県・警察・消防・自衛隊との合同連絡会議において提案され、翌22日朝8時00分をもって決行されることになった。 これに先立って、バスを引き揚げる重機を操作するため陸上自衛隊から重車両部隊が、また水中の捜索に対応するための潜水部隊が招集され、夜を徹して現場に急行した。 朝8時00分、上流部で降雨がないことを確認し、作戦が始まった。 以下に作戦の概要を時系列で記載する。 8:00 - 上麻生ダムの ゲートを全開にして、上麻生ダム湖の 貯水を全て放流する。 同時に上流の名倉発電所では全出力運転を行い、名倉ダム湖の貯水を可能な限り使用し下流への放水を抑える。 9:50 - 名倉発電所の運転を急停止し、 名倉ダムからの放流を開始する。 10:00 - 上麻生ダムの ゲートを全閉にして、貯水を開始する。 同時に上麻生発電所はダム湖から可能な限り取水を行って全出力運転を行い、ダム湖の満水を少しでも遅らせる。 このゲート全閉によってダム直下流の飛騨川は流量がゼロとなって、のような状態になった。 そして、六号車が転落地点から900メートル下流の川底にて半分砂に埋もれ岩に引っかかった状態で見つかった。 30分後の10時30分、ダム湖が満水になり危険な状態となったため、捜索隊全員に退避命令を下し、再度上麻生ダムは放流を始めた。 上麻生ダムはのであり、機能は持たない。 しかも(15年)完成と当時でも古いダム である上、はわずか24万しかなく、豪雨時にはいつもゲートを全開にしていた。 の際にも取り沙汰されたが、洪水調節機能がなく貯水容量の少ないダムの場合、増水時におけるゲート閉鎖はダム本体の決壊という重大な影響を及ぼす可能性がある。 しかし、この事故に際しては緊急事態であったこと、もはや生存者の発見は絶望的とはいえ、あくまで可能性がある人命救助のためという考え方による異例の緊急措置として行われ、難航する捜索活動に大きく貢献した。 水位零作戦は翌と24日にも再度実施され、ようやく六号車の引き揚げに成功する。 しかし、車体は「」の字に折れ曲がり、屋根や座席なども見る影もなく、五号車よりもさらに無残な状態で、子供の1遺体が発見されただけだった。 この車体の破損状況から、濁流による水圧がどれほど凄まじいものだったかを、改めて捜索隊に見せつけた。 辛うじて残っていた1体以外の遺体がすべて流されていたため、さらに下流の捜索が必要となり、今度はのであるにまで捜索範囲を拡大し、川辺ダムの貯水を全放流して湖を空にした。 これは(昭和12年)に川辺ダムが完成して以来、初の試みである。 こうして空になった飛水湖に捜索隊約1000名が入って捜索を開始した。 被害と影響 [ ] 行方不明者はすべて飛騨川に投げ出されており、事故の翌日にはにまで遺体が漂着したため、捜索は下流の広い範囲にまで拡大された。 最終的には、陸上・海上・員9,141名を始め、警察・消防、バス会社・名鉄グループの関係者など、のべ36,683名が投入され、飛騨川・木曽川、さらにはまで1か月以上にわたり捜索が続けられたが、難航する。 魚が死体を食っているという根拠のないで伊勢湾の漁業者が打撃を受けるほどだった。 多くの遺体は堆積した土砂に埋もれており、重機ですくってはの高圧放水で洗い流すという措置までとられたが、最終的には9名の遺体が未回収となっている。 収容された遺体も腕だけが発見されたりするなどさながらに損傷が激しく、のない時代でもあり身元特定は困難を極め、取り違えによるトラブルまで起きた。 3名の生存者は五号車の運転手(当時30歳)と同じく五号車の添乗員(20歳)、家族4人でツアーに参加していた男子中学生(14歳)で、いずれも転落の途中に割れた窓から車外に投げ出されたことで立ち木などに引っ掛かり、奇跡的に生還している。 助かった中学生は当時大幸住宅に両親と姉と共に住んでおり、家族全員をこの事故で失ったが、祖母や親戚の支えがあり、後に大学に進学している。 乗客は大幸住宅、仲田住宅、千種東住宅、若水住宅、引山住宅、天神下住宅 の団地住民で、家族向けのツアーだったことから、4家族が一家全滅となった。 そのうち、中日新聞の社員一家を除いた市営引山住宅の3家族は、いずれもからのだった。 なお、生還した中学生と同い年であった別の団地住民の少年は、家族全員をこの事故で失い、事故から4年後の1972年6月に孤独感から自殺している。 この事故は戦後の混乱が収まり、のなかで、ようやく家族で旅行を楽しめるようになった本格的旅行ブームのなかでの大惨事だった。 の記者が伝えたエピソードに次のようなものがある。 事故の一報を聞いて、大阪からを飛ばして現地に派遣された記者が、はるばる仙台から遺体安置所に駆けつけた男性と遭遇する。 取材すると、名古屋の実家に帰省していた妻と娘2人が事故に遭遇し、一家で彼一人だけが取り残されたという。 敬虔ななのか、妻の遺体が入った棺を前に「神の与えた試練です」とインタビューにきわめて平静に応じていた。 くだんの記者が「ちょっと冷たすぎるのでは?」と思うほどの落ち着き払った態度だった。 数日後、新たに女の子の遺体が事故現場近くで引き上げられたという情報が遺体安置所に流れ、多くの人が現場に駆けつけたが、そのなかにあの男性もいた。 彼は50メートル上のから、見る影もない遺体を見るや、瞬時に判別して娘の名を絶叫し、足場の悪い崖を一気に駆け下りて遺体に抱きつき、もらい泣きする周辺の救助隊員たちの手を借りることなく、号泣しながら道路まで駆け上がってきたという。 この男性のように、家族をすべて失った人は少なくない。 大幸住宅に住んでいたツアー主催の「奥様ジャーナル」社長も、五号車に乗っていた妻と長男を失い、なおかつ大惨事の当事者として、被告人として法廷に立つこととなる。 原因 [ ] この節にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2016年1月) 21世紀となってもなお、は降水量の正確な予報を出すことは難しい。 また前述の通り、当時はの発表をリアルタイムで知ることが困難だった。 ただし、後述するように遺族らが訴訟を起こしたことからもわかる通り、国道の危険箇所に対する行政の対応は万全とはいえなかった。 生存した運転手たちは、地元消防団の警告無視などを理由にの容疑があるとして書類送検されたが、はに、運転手の判断に誤りはあったものの災害回避に全力を尽くしたなどの理由により、無罪の判決を言い渡した。 さらに主催者「奥様ジャーナル」社長の状況判断も裁判で問われたが、過失の認定はされず、これも無罪となった。 偶発的な誤った判断に伴うに、悪い偶然が重なるという、によってもたらされる大惨事にありがちな悲劇だったといえる。 天心白菊の塔 [ ] 昭和43年8月18日午前2時11分この上流約300mの国道41号線上で折からの集中豪雨を避難していた観光バス2輌が、山上から流出落下してきた土石流に押し流され濁流渦巻く飛騨川に転落水没し一瞬にして乗客・乗務員104名の尊命が奪われるという一大惨事が発生しました。 しかも、この中濃地方で時を同じくして災害のため14名の犠牲者が出ました。 同年8月17日夜半から18日未明にわたり突如として襲った、異常にして激甚なる集中豪雨による災禍はまさにこの地方の機能を麻痺せしめ、各所に悲惨な被害と事故を惹きおこしたものでありました。 この塔は、全国に浄財を求めもろもろの善意を結集し建立したもので遭難現場の天心に彷徨される災禍犠牲者118名のみたまを偲び、かくの如き惨事のふたたびくりかへされない様、永遠の平穏を祈念せんとするものであります。 大自然の環境とともに在るこの聖地がいつまでも清浄に皆様のより美しい善意によって守護されることを希求してやみません。 合掌 昭和44年8月18日建之 岐阜県加茂郡白川町 飛騨川バス事故遺族会 偶然にも、この日に現場から1キロメートル下流の河原で白骨化した男性の遺体が発見された。 乗客で唯一の生存者である中学生は、以下のような追悼文を朗読している。 お母さん、私は昨日も夢の中でお母さんに会いました。 お星様の中からお母さんの優しい顔が私を見つめていたのです。 いくら呼んでもお母さんは返事をしてくれません。 悲しくなって目を覚ますと私の顔は涙に濡れていました。 でも今日、亡くなった人たちのおうちができました。 皆さん仲良く暮らしてください。 二度とこのようなことがないように、塔の中からしっかり見守っていてください。 現場近くの上麻生発電所員により、毎月清掃活動が続けられている。 なお、慰霊祭は毎年命日である8月18日に「天心白菊の塔」で行われてきたが、遺族たちも高齢化し、に実施された33回忌を期に遺族会は解散した。 事故から40年目にあたる8月18日に、慰霊祭が白川町仏教会の主催で実施され、遺族のほか白川町長、町会議員など約60人が参列している。 その際、に死去した遺族会会長の息子により、かつてバス会社社長から遺族会に贈られたブロンズ製の母子観音像が初めて会場に安置された。 対策 [ ] 事故の責任をめぐり、不可抗力の天災か、主催者および旅行会社・バス会社の判断ミスによる人災かが争点となった。 当時のであった佐藤榮作は事故発生を知ると、その翌日には対策に乗り出し、「岐阜バス事故対策連絡会」を内閣に設置した。 そのうえで、道路管理には瑕疵がないことを前提にした上で、(自賠責)の適用を軸とした遺族補償が可能かどうかを関係省庁に検討させた。 だが、現地を調査した会社調査団やの有無について現場検証を行った岐阜県警は、事故の原因となったは不可抗力であり、バス会社へのは問えず、自賠責保険は「無責」として支払いの対象外であるとの認識が下された。 この岐阜県警の判断はにが追認している。 またも不起訴とした。 しかし、佐藤内閣は交通行政の主務官庁であるに命じて独自の調査を行う。 その結果、当時のであったはに見解をまとめてで報告した。 その内容は、自賠責法第三条における完全無責の条件は業務上の過失がないことを完全に証明できた場合にのみ適用されるが、「飛騨川バス転落事故の場合は運転を行った岡崎観光自動車が事故発生を未然に防ぐための注意義務に欠けていたため、業務上過失責任は立証される」と解釈し、自賠責の対象とするべきであるとの結論であった。 この運輸省による結論は閣議で承認され、4日後のより特例での自賠責保険支払いが殉職した運転手を除く全遺族に支払われることとなった。 この一件は、後にが誕生する契機にもなる。 一方、遺族は10月に「 飛騨川バス事故遺族会」を結成し、天候が不順であるにもかかわらずツアーを決行した主催者の奥様ジャーナルと後援の名鉄観光サービス、および運転を担当した岡崎観光自動車の三社に対してを求めた。 交渉は半年近くに及んだが、翌(昭和44年)、総額4090万円(当時の金額)での補償案に合意し、示談が成立した。 しかしながら、国が当初から道路管理は適正と主張していたことに対して不満を持っていた遺族会は、国道41号の整備が不良であるために起きた人災であるとして、国の管理に対する責任を問うため、一周忌に併せて開かれた遺族会において訴訟を行うことを満場一致で採択し、総額6億5000万円のを求める訴訟をに起こした( 飛騨川バス転落事故訴訟)。 名古屋地裁は(昭和48年)の第一審判決において、「国の過失六割、不可抗力四割」と認定して約9300万円の賠償を国に求める判決を下したが、原告の遺族会はこれを不服としてした。 (昭和49年)のの判決は、土石流を防止することは当時の科学技術の水準では困難であったとして道路自体の欠陥は否定しながらも、事故現場付近でが起きる危険性は予測可能であったとし、通行禁止などの措置をとらなかったことを瑕疵と認めるなど原告側主張を全面的に認め、国に約4億円の支払いを命じている。 国側は上告せず、結審した。 この事故は多くの教訓を残したが、特に異常気象発生時における国道の防災体制が整備される契機となった。 事故の翌月には全国の国道で総点検が実施されていたが、これは後に「道路防災点検」として制度化され、5年ごとに実施されるようになる。 またも制度化され、一定量以上の降水量が記録された場合にはゲートを閉じて国道を通行止めにする対策が採られるようになった。 この道路管理者による雨量通行規制は、現在は国道だけではなくなどすべての道路において、沿線に常住人口がいない山岳部の区間で実施されている。 現場の国道41号は連続雨量が150ミリを超えた場合、加茂郡中麻生の上麻生橋から白川町の白川口までが通行止めになると定められている。 なお、この基準は道路や区間により異なる。 抜本的道路改良へ [ ] 現場付近の国道41号は、現在も事故当時と同じルートを通っており、度々土砂崩れ、落石、倒木等が発災している。 上記のによる通行止めによって人命にかかわるような大事故は起きていないものの、現場付近の上麻生規制区間の延べ通行止時間は国道41号線の規制対象区間中最多となっている。 このため平成30年度より転落事故現場を含む6. 2km区間について、トンネルおよび橋梁を用いたバイパス新道(一部は現道を利用)により付け替える改良が事業化された(上麻生防災)。 この事業により飛騨川沿いを通る事故現場付近の道路はトンネルに置き換えられる。 なお旧道上になる「 天心白菊の塔」は新道の直近になる見込みである。 時系列表 [ ] 年 月日 時刻 動き (昭和43年) 8:30 、下に大雨洪水雷を発表。 17:15 岐阜地方気象台、岐阜県下の大雨洪水雷注意報を解除。 21:30 ツアー一行、のに集合。 22:00 ツアー一行、犬山を出発。 22:30 岐阜地方気象台、岐阜県下にを発表。 23:00 (事故現場近く)三川小学校観測地点で時間雨量が100ミリを超える。 、各所で寸断される。 0:00 ツアー一行、中継地の岐阜県(現在の)に到着。 悪天候により引き返すことを決定。 1:31 付近で発生、一号車から七号車までの六台が国道41号で立ち往生する。 2:11 五号車・六号車、がけ崩れの直撃を受け飛騨川に転落。 飛騨川バス転落事故発生。 運転手ら、上麻生ダム見張所に救援要請。 見張所職員と員、に通報し残余のバス乗客を避難させる。 5:40 上麻生発電所、に事故第一報を通報。 警察、消防が現場に急行。 岐阜県、に要請を行い、から自衛隊員が出動。 飛騨川の水位を下げる。 10:30 五号車、河岸の中段で発見。 26遺体を収容。 に事故被害者の遺体が漂着する。 0:00 「水位零作戦」了承される。 陸上自衛隊、より六号車引き揚げのための増援部隊が招集される。 8:00 第一次「水位零作戦」が開始される。 上麻生ダム・名倉発電所全出力運転開始。 9:50 名倉発電所運転停止・名倉ダム放流開始。 10:00 上麻生ダム放流停止。 飛騨川の水量がゼロになり、六号車が川底から発見される。 10:30 上麻生ダム満水になり、再び放流開始。 第二次「水位零作戦」が開始される。 第三次「水位零作戦」が開始される。 六号車が収容され、1遺体が発見される。 下流にある飛水湖の捜索開始。 へ捜索を拡大。 まで捜索を拡大。 最終的に95遺体を収容するが、9遺体は発見できず。 の・、による特例補償を行う方針をで報告、閣議これを了承する。 各会社、閣議の決定に基づき遺族にの支払いを開始する。 、慰霊献花のため現場を訪問。 10月 被害者遺族、「飛騨川バス事故遺族会」を結成。 (昭和44年) 第五回遺族会総会開催。 主催者側(奥様ジャーナル・・)との示談が成立する。 8月18日 事故現場に天心白菊の塔が建立され、一周忌が執り行われる。 この際1遺体が発見される。 8月 遺族会、国の道路行政の責任を問い(飛騨川バス転落事故訴訟)をに起こす。 (昭和48年) 事故訴訟の名古屋地方裁判所判決が下る。 原告・被告双方が判決を不服としてにする。 (昭和49年) 事故訴訟の名古屋高等裁判所判決で原告遺族全面勝訴。 国はせず補償金を支払い、判決が確定。 補足 [ ] この時の豪雨は地元の人間にとっても普段の比ではなく凄まじいものであった。 事故現場からほど近い(現)のの当直助役は、経験のない程の豪雨に恐怖と不安を感じ、その豪雨の中やってきた発行き下り普通列車に青信号(進行現示)を出さなかった。 その決断は事故前日22時31分である。 列車が遅れており苛立つ乗客に詰め寄られても頑として拒んだという。 その後、上述の通り白川口駅付近での路盤崩壊が発見された( - 間がまで不通となる)。 そして駅から約300mと 寄り約1kmの2か所で土砂崩れが起きていた。 また同じ頃、でも、当直助役が発行き上り普通列車の前途を心配し、一つ富山寄りのに当該列車の抑止を依頼した直後、付近の様子を見に行った消防団員から、下油井駅付近での土砂崩れ発生の連絡を受けた。 当時の高山本線はまだが運用されておらず 、両方ともそのまま進行現示を出していれば大事故になっていたであろうと言われている。 結果、高山本線の被害は、土砂崩れ、浸水箇所の10か所にのぼった。 また、これらの行動で事故発生を防いだ白川口・下油井両駅の当直助役には表彰状、消防団員には感謝状が、から贈られた。 なお、事故時点ではCTC整備中で、その1か月半後から監視がされており、白川口駅はによる簡易委託駅になっている。 現場付近の高山本線は国道41号の対岸を走っているため、事故当時の面影を車窓から確認できる。 事故発生から半世紀となる、事故当日に現場のすぐ近くで立ち往生していた他のバスの運転手だったの社員(に69歳で死去)が、事故から20年後のに書いた回想の手記が公表された。 類似の事故 [ ]• () - でを行っていたがへ転落。 死者28人前後とみられているが、不特定多数の乗客であるため最終的な死者数が確定できていない。 () - で国道305号を走行中のマイクロバスが岩盤崩落の下敷きとなり、乗客乗員15人全員が死亡した。 当時悪天候などは見られず、岩盤も落石防護被覆(ロックシェード)を突き破って道路に到達した。 () - で竜ヶ水駅に停車中の普通列車が豪雨による土石流の下敷きとなり、乗客3人が死亡した。 事故直前に前後の線路は遮断されており、運転士も事前に乗客を避難させていた。 事故に巻き込まれた乗客は運転士の指示に従っていなかった。 () - のの内を走行中だったの余別発行き路線バスと、後続の1台と、対向の乗用車1台の計3台がトンネル内部で岩盤崩落の直撃を受け、間一髪で脱出した乗用車運転の1名を除き、バスの乗客18名と乗員1名と乗用車1名の計20名が死亡した。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 今日でいうのはしりで、に創刊され、廃刊。 雷雨注意報は現在の雷注意報。 四号車は験を担いで欠番となっていた。 しかし、結局のところ間に挟まれた三、五、および六号車で死者を出した(三号車の運転手が連絡のために五号車に乗っていたため)。 自衛隊においては、旧軍や諸外国の軍隊同様、戦時以外においても目標を達成するための計画的行動を「作戦」と呼んでいる。 (昭和39年)に改定されたにおけるダムの規定は高さ15. 0メートル以上であり、高さ13. 2メートルの上麻生ダムは現在の法律上ではにあたる。 大幸住宅は、他は(以降は引山住宅と天神下住宅は)。 いずれの団地も建て替えられて、当時の住宅棟は現存しない。 ただし、30年後のにも現場付近で土砂崩れが発生し、車両90台が閉じ込められているが、人的・物的被害はなかった。 高山本線は本線格ながらも災害が多発するという特異な路線で、地方路線としては1968年時点では異例のCTC整備が行われた。 この事故はその1か月半前に発生している。 出典 [ ]• 犠牲者の腕時計による。 岐阜国道事務所. 2018年8月19日閲覧。 岐阜国道事務所. 2018年8月19日閲覧。 毎日新聞中部本社版1968年(昭和43年)8月24日付夕刊第7面• 参考文献 [ ]• - (2013年4月27日アーカイブ分)• 第26巻2号 「飛騨川バス転落事故104人死亡の惨劇」:2月• 関連項目 [ ]• - 毎日新聞記者時代に当事故を取材している。 外部リンク [ ]• ()- 本記事に記載された道路のキロポストの確認に活用すると便利。

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玄倉川水難事故

玄倉 川 水難 事故 その後

丹沢湖(左下端が現場付近) 水系に属する玄倉川は、標高1,673メートルの最高峰、、など急峻な山を水源とする。 丹沢山地は、口が沿線ということもあって登山者が多いが、などからの湿った暖かい空気を高い標高で引き受けることから、を除いてが多く、また地形的にもかなり険しいである。 地理的には、玄倉ダム付近から上流は特に渓谷となっており、など難しいのコースが数多くあることでも登山者に知られている。 気象条件と地理条件を考慮すると、玄倉川は降雨量によっては急激に水位を増す可能性の高い渓谷である。 玄倉ダムも渓谷を堰き止める形で建設されたものである。 遭難現場は、に造られた立間上流のが湾曲する地点に広がった堆砂地で、河床幅は約100メートル 、堰堤より2メートル高かった。 冒頭に掲げられた遭難現場の写真からは傾斜の少ない地形がキャンプの適地にもみえるが、があまりない場所であることからもうかがえるように、豪雨の際は水没する地点である。 当時の気象 [ ] 1999年の夏は、平年では日本の東海上の30度付近にあるの中心が40度付近にまで北上した。 この結果、・は、やはや雨模様が続く「東高西低」のとなり、8月上旬のでの平均最高がを上回るというだった。 また、通常では珍しい北緯20度以北でのの発生が多数みられ、に発達するは得られないものの、に頻繁に接近・上陸して不安定なをもたらした。 にはで1時間に101ミリと当該観測地点における記録を更新するが観測され 、市内全域にが発令される など、各地でが生じていた。 この当該事故の原因となった大雨をもたらした熱帯低気圧も、8月13日にの南海上で発生したものである。 この熱帯低気圧は、勢力は弱かったが濃い雨雲を伴っていた。 さらにで発達した高気圧に押されて速度が遅くなったため、東北地方から九州地方にかけての各地に局地的豪雨をもたらした。 14日には関東南岸へ、さらにには本州を縦断して付近へと進んだが、特に雨雲が発達した関東地方では、ところにより1時間に30 - 50ミリの強い雨になった。 (現・)では13日の降り始めから14日夜までの雨量が420ミリを超えたほか、神奈川県(現・)などでも300ミリを超えた。 事故現場近くにあるのには、事故前日13日の20時ごろから1時間あたり10ミリを超える大雨が断続的に降り続いていたことが記録されている。 増水が著しくなった8時までの総雨量は114ミリで、特にが開始された10時には、1時間に38ミリという土砂降りとなっていた。 雨が上がるまでの累計雨量は、最終的には29時間で349ミリが記録されている。 ただし事故現場周辺は、上記のような地理的条件から恒常的に雨量の多い地点で、29時間で349ミリという値自体はとくに珍しいものでない。 なお、13日17時22分にが速報したは次のような内容だった。 玄倉ダムの場所 玄倉ダム の諸元は次の通り( )。 型式 高さ 14. 5メートル 長さ 30. 5メートル 有効貯水容量 4万2,690立方メートル 目的 管理・運用者 神奈川県企業局 利水電気部 このダムは、下流にある玄倉第一発電所(水力発電所)への発電用水を取水するために設けられている。 第44条1項におけるダムの基準「高さ15. 0メートル以上」の規定より50センチ低いためダムとしては扱われず、として扱われる。 また、この玄倉ダムは一般的に想像されるダムのように水を溜め込んで洪水を防ぐようなダムではなく、貯水容量がきわめて小規模な取水堰である。 このような小規模な発電用ダム・堰の場合、増水時には速やかなゲートの開放が要求される。 を目的に持つダムの場合は、あらかじめ雨季の前に貯水池の水位を下げ、洪水が起きても貯水池に水を蓄える機能を持っているが、玄倉ダムの場合は洪水調節機能を持たないばかりか、貯水池自体もきわめて容量が小さいため、洪水が起これば空の状態から数時間も待たずに満水となる。 玄倉ダムにおいては貯水池への流入量が毎秒50立方メートルを超えた状態を「洪水」として放流を含めた操作を規定しているが 、事故当時の流入量は毎秒100立方メートルであったとされ、流入量と貯水容量の比から満水までの時間を算出すると、仮に貯水池が空であったとしても約7分程度で満水となる計算となる。 したがって、事故当時はこれより短い時間で満水になったことが推測される。 三保ダムと丹沢湖 事故当時、玄倉ダムの操作に対する疑問も呈されたが、仮にゲートを開けなければゲート上もしくはダム堤体上を洪水が越流する(堤体越流)が起こることは確実であり、これはダム自体がする危険性がきわめて高くなる状態である。 また、洪水時における洪水調整機能を持つダムの放水はを行うことと同義であり、ダム流入水量と放流水量が同量で、洪水調整機能を果たせていない深刻な状態である。 ダムの下流には大規模なである()があり、玄倉ダムが決壊した場合、三保ダムの堤体にも重大な影響を与える可能性がある。 三保ダムは土砂・・で河川を堰き止めるであるため、堤体越流に弱い。 三保ダムは洪水調節機能を有するため貯水池である丹沢湖には余裕があったものの、万が一堤体越流が起こった場合、三保ダム決壊という最悪の結果につながっていた。 仮に決壊となれば、下流のをはじめとする深刻な人的被害が想定され、管理者側はこうした危険を回避するため、玄倉ダムゲートを全開にしたとしている。 の要請によりダムのが一時的にストップしているが、同様の対応としてにで発生したで、要請を受けたが用取水堰であった()の放流を断続的に停止したという前例がある。 しかし、このときは本来のダム操作規定に沿ったものではなく、被害者捜索のために特例的に行われた措置である。 事故の経過 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2016年7月) 1999年8月13日 [ ]• 15時ごろ:降水が始まる。 当時隆盛しつつあった「オートキャンプ・ブーム」に加え、の極大、さらにの時期にあたり、遭難した横浜市内の一行を含め、玄倉川ではこの日、キャンプ指定地外の6か所に50張ほどのテントが張られていた。 15時20分ごろ:ダム管理職員が1回目の巡視を行い、で行楽客に増水と水位上昇の危険性を警告し、退避を促したところ、大部分の行楽客はこの警告に従って水際から退避した。 一方で、一行からの反応は冷ややかだった。 16時50分:内全域に大雨洪水注意報が発表される。 19時ごろ:一行25人のうち4人は日帰り参加のため、幕営地を離れて帰宅した。 19時35分ごろ:雨足が激しくなり、事故現場の5キロ上流の玄倉ダムが放流予告のを鳴らす。 19時50分ごろ:ダム管理職員が2回目の巡視を行い、一行に直接、中洲から退避するよう勧告するが、拒否される。 20時6分:ダム管理事務所は「これ以上は危険」と判断し、からも退去命令をしてもらうため、に通報した。 20時20分: 玄倉ダムがを開始。 21時10分:ダム管理職員と警察官が退避勧告を行う。 中洲と岸辺の間の水流は勢いを増し、直接勧告することは不可能だった。 一行のうち、比較的年齢の高い社員とその妻ら3名が指示に応じて中洲を離れ、自動車に退避する。 拡声器を用いて安否と人数を確認すると、「大丈夫」という反応だった。 警察官は、万が一の場合は後方の山に避難するよう告げた。 1999年8月14日 [ ]• 5時35分:降雨はさらに激しさを増し、神奈川県全域にが発表された。 6時ごろ:前夜に撤収したメンバーが、川を渡って中州のテントに残っている仲間に中洲から避難するよう呼びかけるが、反応なし。 まだ水流は膝下ぐらいの深さで、辛うじて渡渉可能だった。 6時35分:豪雨による増水にともない、貯水機能のない玄倉ダムは本格的に放流を開始。 7時30分ごろ:警察官が巡回し、テントまで2メートル付近まで近づく。 幕営地点からの退避を呼びかけるが反応無し、警察官は現場から離れる。 8時4分:熱帯低気圧の接近で本格的な暴風雨となり、前夜に岸に避難した社員からに通報で救助要請が入る。 8時30分ごろ:すぐ下流の立間堰堤の水深が普段より85センチ高い1メートル程度となり 、中州も水没する。 膝越し以上の水位の渡渉は、通常の流れであってもザイルがないと大人でも危険であり、増水して急流となった現場は、自力での退避が不可能となった。 既にテントは流され岸からの距離は80メートルほどになっており、中洲で野営した横浜市内の一行は状態になった。 9時7分:の本部から救助隊5人が通報を受けて現場に到着。 渡渉によるを試みるが、激しい水流のため断念する。 は配置されておらず、またお盆の土曜日で、組合本部は12人、2つの分署に各5人の体制だった。 約20人に増えた時間は流失直前の11時半だった。 一方、松田警察署も当直体制にあり、まず6人を送り、徐々に増員することとなった。 10時ごろ:レスキュー隊員11名のうち2名が断崖伝いに対岸に到着。 のも現地に到着し、を開始する。 10時10分:救助の出動が要請されるが、熱帯低気圧による強風と、複雑な谷あいに低く垂れた濃雲のためが懸念され、却下された。 なお、用のヘリコプターも当日は現場に近づけず、は皆無である。 また、はしご車による救出も路肩が弱く安定が維持できないため不可能であり、ロープによる救出以外に方法はなかった。 10時30分ごろよりが対岸にで救助用リードの発射を試みるが、対岸の樹木に引っかかってしまった。 15分後に再びロープが発射されるが、一射目のロープが絡まり、また水圧と流木に妨げられてメインロープが遭難者に届かなかった。 すでにテントは流され、3本のビーチパラソルの支柱を中心に、男性たちが上流側で踏ん張って水流をやわらげようとし、中央部に女性や子どもが寄り添って雨風を避け、下流側で乳幼児を抱いた男性が佇んでいる様子の映像がテレビで速報される。 11時ごろ:玄倉ダムが警察からの要請を受け放流中止。 しかし玄倉ダムは発電用ダムで貯水能力に乏しいため、すぐに満水となり崩壊の危機に直面。 やむなく崩壊防止のため5分で放流を再開。 11時38分:水深が2メートル近くになる。 水位は胸にまで達し、救援隊や報道関係者の見守る前で、18人全員がまとめて濁流に流された。 1歳の甥(1歳男児)を抱いていた伯父がとっさに子どもを岸に向かって放り投げ、別グループのキャンプ客(東京都のとび職男性)が危険を顧みず救い上げる。 この子どもの父親と姉を含む大人3名、子ども1名も対岸に流れ着く。 しかし、残りの13名はすぐ下流の立間堰堤から流れ落ち、以後は姿が確認できなくなる。 12時14分:現地本部が設置される。 数名が泳いでいるとの誤情報に応じ、下流の丹沢湖では大雨のもとでボートによる捜索が開始された。 17時:はにを要請。 19時ごろ:丹沢湖で女性の2名の遺体を回収。 1999年8月15日 [ ]• 7時ごろ:警察、消防、自衛隊のが対岸に流れ着いて夜を過ごした4名(31歳男性と5歳の娘、31歳男性と29歳男性の兄弟)の救助を開始。 8時30分ごろ:救助チームが対岸の4名を救助。 午後:丹沢湖で2遺体発見。 翌日より警察・消防・自衛隊は340人体制で捜索開始。 大雨でダムまで流れ出したなど浮遊物が多く、捜索は困難をきわめた。 また、や、、などのや地元も捜索活動に参加したほか、近隣も活動支援し、需要の確保を目的に建設された三保ダムでは捜索協力のため、丹沢湖貯水の大量放水を実施した。 その後の天候次第では、小田原市などへの供給に大きく影響した可能性があった。 1999年8月29日 [ ]• 自衛隊による捜索活動打ち切りの直前になって、最後まで行方不明だった1歳女児の遺体が発見される。 これで13名全員の遺体が丹沢湖から収容された。 反響 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2014年7月) 報道 [ ] この水難事故で、河川が増水しキャンプ客が水に流される瞬間までの様子がテレビでされたため、世間に大きな衝撃を与えた。 遭難者への反応 [ ] 本件事故のテレビでの報道では、一部のワイドショー番組は当初、遭難者たちが流される映像を繰り返し放映した。 視聴者から寄せられた遭難者たちの行動に対する見解を読み上げるとともに、事故の経緯や遭難者たちの問題点および自己責任を指摘するといった内容の放送を行っていた。 しかし、結果的には死亡者が発生する事故となったことで、視聴者から事故の映像に関する放映の是非を問う指摘を受け、ワイドショー側が遭難者らが流される場面の放映を自粛する運びとなった。 救出・捜索費用 [ ] 救助や捜索に要した費用のうち、地元自治体である山北町が負担した額は4,800万円、神奈川県警察が要した費用は同日で発生した別件の水難事故1件とあわせ、人件費のみで1億円となった。 これらの費用はすべて公費負担された。 対策 [ ] この事故を契機にでは「危険が内在する河川の自然性を踏まえた河川利用及び安全確保のあり方に関する研究会」が開かれた。 神奈川県をはじめとする各自治体においても同様の河川の利用と安全に関する議論が行われた。 より強い退去措置が取れなかったのかという反省とともに、の装備やの不備を指摘する意見もあがった。 事故発生時現場を管轄していた消防本部は、十分な救助体制をとれるような組織規模を有していなかった。 その後、(平成8年)から協議が行われていた 隣接の南足柄市消防本部との組織の統合が(平成12年)になされ、消防本部が発足。 2013年にはに統合された。 また、は都内で同様の事故が起きた場合に備えて、(平成16年)に急流救助を専門とするスイフトウォーターレスキューを発隊させた。 この事故が発生するまで、は中心付近の最大風速が秒速17. 2メートル以下の熱帯低気圧を「弱い熱帯低気圧」と呼び、またの強さを「弱い」「並の強さ」「強い」「非常に強い」「猛烈な」の5段階で、台風の大きさを「ごく小さい」「小型」「中型」「大型」「超大型」の5段階で表現していた。 だが、それまでの「弱い」「小型」といった表現では、予報を受ける側から見て「大した影響がない、小雨程度」と誤解される可能性があり、上好ましくないということになった。 これを受けて気象庁は2000年より気象情報の発表に際し、「弱い熱帯低気圧」を単に「熱帯低気圧」と変え、台風の強さの「弱い」「並の強さ」、台風の大きさの「ごく小さい」「小型」「中型」の表現を廃止するなどの措置をとっている。 脚注 [ ] []• デジタル台風. 2013年6月20日閲覧。 近藤悟 2012年12月18日. 2013年6月20日閲覧。 (気象庁)• 長崎地方気象台. 2014年8月4日閲覧。 デジタル台風. 2013年6月20日閲覧。 国土交通省 2010年1月13日. 2013年6月20日閲覧。 デジタル台風. 2013年6月20日閲覧。 (神奈川県企業庁ホームページ)• 神奈川県 県土整備局 河川下水道部 河川課 2012年5月31日. 2013年8月14日閲覧。 「今夏の水難事故 自治体費用・すべて公費で負担」 付朝刊• 国土交通省 2000年10月30日. 2013年7月20日閲覧。 国土交通省 2001年7月4日. 2013年7月20日閲覧。 足柄消防組合総務課 2010年10月7日. 2013年7月30日閲覧。 東京消防庁 2011年8月8日. 2013年7月30日閲覧。 国土交通省 2008年3月26日. 2013年7月20日閲覧。 ・オフィシャルサイト 2012年11月22日. 2013年6月20日閲覧。 外部リンク [ ]• - 危険が内在する河川の自然性を踏まえた河川利用及び安全確保のあり方に関する研究会(国土交通省)•

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飛騨川バス転落事故

玄倉 川 水難 事故 その後

: 日付 (昭和43年) 午前2時11分 JST 概要 観光バス2台がに巻き込まれ、に転落. 原因 による大規模な土砂崩れ 死亡者 95名: 遺体回収された人数 負傷者 3名 行方不明者 9名: 遺体未回収の人数 損害 岡崎観光自動車観光バス2台 賠償• 、特例で殉職した運転手を除く全遺族への自賠責保険支払決定。 、被害者遺族と主催者、後援、および岡崎観光自動車の計3社との間で総額4,090万円での補償案に合意、示談成立。 、被害者と国との行政訴訟、遺族側全面勝訴、国の補償金約4億円の支払いが確定。 飛騨川バス転落事故(ひだがわバスてんらくじこ)は、(昭和43年)に、のにおいて生じたによるバスである。 へ向かっていた15台のうち、岡崎観光自動車(のちに合併によりを経て現在は岡崎営業所となっている)所有の2台のバスが、に伴うに巻き込まれて、増水していたに転落し、乗員・乗客107名のうち104名が死亡した。 日本のバス事故史上における最悪の事故となった。 経緯 [ ] 以下、時刻は全て24時間表記とする。 概略については後述のを参照のこと。 犠牲となった観光バスの乗客は、での主婦を対象に無料新聞を発刊していた が主催し、が協賛した、「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」というツアーの参加者だった。 お盆休みの週末という日程と、からの御来光やのパノラマ、小京都と喧伝された飛騨の観光を手軽に楽しめる家族旅行向けの企画ということもあり、申し込み数は主催者側の予想を上回り、名古屋市内の団地を中心に750人以上が参加した。 は、依頼を受けた岡崎観光自動車だけでは調達しきれず、同社を中心に同業他社3社にも応援を要請し、合計4社から手配された。 予定では、名古屋市内の各団地でバスが乗客を拾い、の駐車場に21時30分に全車が集合し、休憩ののち22時に出発。 その後に入って飛騨川の沿いに国道41号を北進し、美濃太田()、、を経由して、翌朝4時30分に標高3000メートル近いで御来光を迎え、夕方に犬山へ戻り、各団地ごとに解散という流れであった。 車中泊を含む片道160の行程で、「定番コース」ということもあり、ベテランの運転手たちにとってはいわば通り慣れた道だった。 当時の天候 [ ] 現場付近の。 事故当時と道路幅は余り変わっていない。 山側も谷側も切り立っており、落石の危険がある道路でもある。 岐阜地方気象台は8時30分に大雨・洪水・雷雨 を発表していたが、午後に入って小降りになり、場所によっては晴れ間も見えてきたので、レーダー観測とも照らし合わせ、17時15分に注意報を解除する。 その後19時前に放送された天気予報は、岐阜県の天気は回復し翌朝は晴れる見込みだと報じた。 実際に翌朝の岐阜市内は晴天だったが、当時は気象衛星による観測が端緒についたばかりで、重大な気象の変化までは把握しきれなかった。 西側の沖合い400kmまで進んだ台風7号は、勢力を落としてとなった。 しかし、大陸に横たわる冷たい空気との間で生じたが東北地方から北陸・近畿を経て九州付近にのび、それに向かって太平洋上の高気圧から暖かい湿った空気が「」のかたちで入り込んだため、夜に入って岐阜県中部上空の大気は非常に不安定な状態となり、分水嶺南側を中心に直径数km程度の局地的かつ濃密なが多数発生しはじめる。 これをとらえたからの連絡を受け、気象台は20時に雷雨注意報を発表し、22時30分には大雨・洪水に切り替えた。 (現・美並町)で1時間雨量114ミリ、白川町三川小学校で100ミリ、そして奥美濃で149ミリの猛烈な雨が降り、過去の記録を大きく上回るとなった。 日付が変わる前後から、家屋の浸水や土砂崩れ、 - での線路崩落(復旧に1ヶ月近くを要した)が発生するなど、岐阜県内各地で被害が続出する。 ツアーを主催する奥様ジャーナル社長は、標高の高い地点に観光客を誘導するだけに台風の動きを気にしていたが、19時の予報を岐阜の気象台に電話で問い合わせた上で、予定通りツアーを決行した。 しかし、1時間後の20時に発表された注意報、さらに22時30分の警報は把握できなかった。 注意報が解除されたのは、17時15分から20時までの2時間45分に過ぎなかった。 携帯通信が発達した現代と異なり、当時はリアルタイムに気象情報を把握することは不可能で、車載のラジオも就寝中の乗客がいる夜間に流すことは難しい状況であった。 出発から予定変更まで [ ] ツアーの一行は、主催者の奥様ジャーナル社長らが乗った一号車を先頭に、十六号車まで15台(四号車は欠番 )の車列を連ねて22時10分ごろに犬山を出発した。 乗客725名、主催者・運転手・名鉄観光サービスの添乗員ら48名の、あわせて773名という大規模ツアーだった。 しかし、出発直後から雨が降り出し、警報が出た22時30分ごろに美濃加茂を通過したあたりから激しいに遭遇したが、23時33分には、休憩地である(現・)の76. 5km地点(名古屋市東区泉1丁目高岳交差点にある国道起点からの距離。 以下同じ)にある「モーテル飛騨」にほぼ予定通り到着する。 運転手たちにとっては勝手知ったる道で、悪天候でも問題なく走れた。 しかし、毎時50ミリ以上という猛烈な豪雨に加え、前方のの入口にあたる78km地点付近で土砂崩れが発生しているなど、道路状況が悪いとの情報が対向車から入ってきた。 主催者と添乗員・運転手たちが協議した結果、それ以上の北行を断念してツアーを1週間延期することとし、各号車の出発地まで引き返すことが決定された。 目的地まではさらなる状況悪化が予想されたため、通過してきたばかりの道路を引き返し、乗客をとりあえずは帰宅させるという判断だったが、結果的には最悪の危険地帯に進路変更することとなった。 帰路 [ ] 日付が変わり、8月18日の0時5分、岡崎観光自動車に所属する一号車から七号車を第1グループ、別会社の混成である八号車から十六号車を第2グループとし、15台のバスは激しさを増した雷雨の中で名古屋への帰路についた。 同18分には、10kmほど先の付近にある飛泉橋(66. 4km地点)を通過したが、ここで五号車の運転手が飛騨川の水位を警戒していた白川町第二分団に呼び止められ、前方は溢水や落石の危険があるとして、運転見合わせを勧告される。 しかし、まだ通行規制は敷かれていない上、一、二、三号車はすでに橋を通過していたため追尾することとし、六号車と七号車もこれに続いた。 一方、やや遅れて走ってきた八号車を先頭とする第2グループは、消防団の警告に応じて白川口駅前広場で待機し、深夜の豪雨をやり過ごした。 第1グループは、直後の65. 25km地点で小規模な崩落現場に遭遇し、運転手や添乗員がずぶ濡れになりながら土砂をスコップで除去した。 しかし、 を過ぎ、1kmほど進んだ64. 17km地点では大規模な崩落により道路が完全に寸断されていたため、やむなく白川口駅まで2kmほど戻ることにした。 ところが木材を積載した大型トラックが左車線を塞ぐ形で身動きが取れなくなっており、また大型バスでは転回不能な道幅であったため、やむなく一~三号車は右車線をバックして移動を開始した。 五号車が先頭になったものの、1時35分ごろには約600m後方の64. 8km地点でも土砂崩れが発生した。 これにより、6台のバスは完全に道路の前後を塞がれ実質的に移動不可能となり、周辺の車両と共に完全に立ち往生する。 雷鳴と稲光が続く中、各号車の補助運転手は車外に出てヘッドライトを外し、崖を照射して鉄砲水の警戒にあたった。 また、後方の様子を伝えるために三号車の運転手が先頭の五号車に向かい、六号車の運転手も対策を協議するため七号車に移動していた。 事故発生 [ ]。 ここから事故の第一報が伝えられた。 立ち往生から40分ほど経った2時11分 、64. 3km地点で、高さ100m、幅30mに渡る巨大な土砂崩れが発生した。 にして約250台分のが急斜面を滑り落ちて五、六、七号車を直撃し、七号車は1mほど横滑りしながらもガードレールに抑えられたが、五号車と六号車は15m下の増水した飛騨川へゆっくり転落していった。 乗務員たちが混乱する傍らで、立ち往生の車内で就寝している乗客も多かったが、大音響と震動に各号車の車内は総立ちとなり、特に大惨事を目の当たりにした七号車は騒然となった。 奇跡的に生還した五号車の運転手は、転落の瞬間に車内の子供たちが挙げた「アーッ!」という叫び声が耳から離れないと証言している。 六号車の運転手は七号車から自車の最期を目撃し、五号車にいた三号車の運転手は消息を絶った。 難を免れた運転手と添乗員たちは乗客を車外に誘導して安全確保に努め、このうち4人が救助を求めるため、複数の崩落現場をくぐり抜け、対岸にある上麻生ダム見張所に向かった。 見張所で当直にあたっていた発電所員は4人の要請を受け、直ちに通信線でダム本部に連絡するとともに、二次災害を防ぐために消防団員と共に残りの乗員・乗客や一般ドライバーたちを誘導し、見張所や水門機械室、資材倉庫に避難させた。 一報を受けた上麻生ダム経由でに通報が届いたのは、転落から3時間29分が経過した5時40分だった。 事故は朝のニュースで全国に速報され、世間の関心は飛騨川に集中した。 事故後 [ ] 水位零作戦 [ ]。 貯水を全てし捜索活動が行われた。 通報を受け、加茂警察署ほか4警察署、各地域の、さらには などが岐阜県から要請を受けて救助活動にあたるなど、捜索活動を側面支援した。 しかし、現場はにも指定されている名勝・の上流部にあたり、両岸が深く険しく切り立ったを形成していた。 100名を越す乗員・乗客の安否はもちろん、車体すら発見できなかったが、事故翌日の10時30分ごろ、転落現場から約300メートル下流で、五号車がタイヤを上に押し潰された状態で発見され、砂だらけの車内から3名の子供の遺体が収容された。 このほか転落現場周辺で23名の遺体が発見されたが、六号車や他の行方不明者は発見できなかった。 普段から飛騨川は日本有数の急流として知られるが、豪雨に伴う激しい流れにより救助活動は難航する。 しかし、行方不明者の家族は早急な車体回収と引き揚げ要請を行った。 これに応じて、上流にある名倉ダムも活用して上麻生ダムの放流を停止し、水が引いたわずかな時間を利用してまだ発見されていない六号車の捜索を行わせることになる。 上麻生ダム直下の飛騨川の水位をゼロにするということから「 水位零(ゼロ)作戦」 と名付けられた。 この「作戦」は、上流の名倉発電所が発電をしている限りは名倉ダムの満水到達時刻を遅らせられること、名倉ダムから上麻生ダム間の飛騨川はを繰り返すため洪水到達時間までおよそ一時間かかること、上麻生ダムのゲートが莫大なに耐えられる構造であるために可能な作戦だった。 しかし、上流で雨が降ればこの作戦は遂行できない。 「水位零作戦」は21日深夜、県・警察・消防・自衛隊との合同連絡会議において提案され、翌22日朝8時00分をもって決行されることになった。 これに先立って、バスを引き揚げる重機を操作するため陸上自衛隊から重車両部隊が、また水中の捜索に対応するための潜水部隊が招集され、夜を徹して現場に急行した。 朝8時00分、上流部で降雨がないことを確認し、作戦が始まった。 以下に作戦の概要を時系列で記載する。 8:00 - 上麻生ダムの ゲートを全開にして、上麻生ダム湖の 貯水を全て放流する。 同時に上流の名倉発電所では全出力運転を行い、名倉ダム湖の貯水を可能な限り使用し下流への放水を抑える。 9:50 - 名倉発電所の運転を急停止し、 名倉ダムからの放流を開始する。 10:00 - 上麻生ダムの ゲートを全閉にして、貯水を開始する。 同時に上麻生発電所はダム湖から可能な限り取水を行って全出力運転を行い、ダム湖の満水を少しでも遅らせる。 このゲート全閉によってダム直下流の飛騨川は流量がゼロとなって、のような状態になった。 そして、六号車が転落地点から900メートル下流の川底にて半分砂に埋もれ岩に引っかかった状態で見つかった。 30分後の10時30分、ダム湖が満水になり危険な状態となったため、捜索隊全員に退避命令を下し、再度上麻生ダムは放流を始めた。 上麻生ダムはのであり、機能は持たない。 しかも(15年)完成と当時でも古いダム である上、はわずか24万しかなく、豪雨時にはいつもゲートを全開にしていた。 の際にも取り沙汰されたが、洪水調節機能がなく貯水容量の少ないダムの場合、増水時におけるゲート閉鎖はダム本体の決壊という重大な影響を及ぼす可能性がある。 しかし、この事故に際しては緊急事態であったこと、もはや生存者の発見は絶望的とはいえ、あくまで可能性がある人命救助のためという考え方による異例の緊急措置として行われ、難航する捜索活動に大きく貢献した。 水位零作戦は翌と24日にも再度実施され、ようやく六号車の引き揚げに成功する。 しかし、車体は「」の字に折れ曲がり、屋根や座席なども見る影もなく、五号車よりもさらに無残な状態で、子供の1遺体が発見されただけだった。 この車体の破損状況から、濁流による水圧がどれほど凄まじいものだったかを、改めて捜索隊に見せつけた。 辛うじて残っていた1体以外の遺体がすべて流されていたため、さらに下流の捜索が必要となり、今度はのであるにまで捜索範囲を拡大し、川辺ダムの貯水を全放流して湖を空にした。 これは(昭和12年)に川辺ダムが完成して以来、初の試みである。 こうして空になった飛水湖に捜索隊約1000名が入って捜索を開始した。 被害と影響 [ ] 行方不明者はすべて飛騨川に投げ出されており、事故の翌日にはにまで遺体が漂着したため、捜索は下流の広い範囲にまで拡大された。 最終的には、陸上・海上・員9,141名を始め、警察・消防、バス会社・名鉄グループの関係者など、のべ36,683名が投入され、飛騨川・木曽川、さらにはまで1か月以上にわたり捜索が続けられたが、難航する。 魚が死体を食っているという根拠のないで伊勢湾の漁業者が打撃を受けるほどだった。 多くの遺体は堆積した土砂に埋もれており、重機ですくってはの高圧放水で洗い流すという措置までとられたが、最終的には9名の遺体が未回収となっている。 収容された遺体も腕だけが発見されたりするなどさながらに損傷が激しく、のない時代でもあり身元特定は困難を極め、取り違えによるトラブルまで起きた。 3名の生存者は五号車の運転手(当時30歳)と同じく五号車の添乗員(20歳)、家族4人でツアーに参加していた男子中学生(14歳)で、いずれも転落の途中に割れた窓から車外に投げ出されたことで立ち木などに引っ掛かり、奇跡的に生還している。 助かった中学生は当時大幸住宅に両親と姉と共に住んでおり、家族全員をこの事故で失ったが、祖母や親戚の支えがあり、後に大学に進学している。 乗客は大幸住宅、仲田住宅、千種東住宅、若水住宅、引山住宅、天神下住宅 の団地住民で、家族向けのツアーだったことから、4家族が一家全滅となった。 そのうち、中日新聞の社員一家を除いた市営引山住宅の3家族は、いずれもからのだった。 なお、生還した中学生と同い年であった別の団地住民の少年は、家族全員をこの事故で失い、事故から4年後の1972年6月に孤独感から自殺している。 この事故は戦後の混乱が収まり、のなかで、ようやく家族で旅行を楽しめるようになった本格的旅行ブームのなかでの大惨事だった。 の記者が伝えたエピソードに次のようなものがある。 事故の一報を聞いて、大阪からを飛ばして現地に派遣された記者が、はるばる仙台から遺体安置所に駆けつけた男性と遭遇する。 取材すると、名古屋の実家に帰省していた妻と娘2人が事故に遭遇し、一家で彼一人だけが取り残されたという。 敬虔ななのか、妻の遺体が入った棺を前に「神の与えた試練です」とインタビューにきわめて平静に応じていた。 くだんの記者が「ちょっと冷たすぎるのでは?」と思うほどの落ち着き払った態度だった。 数日後、新たに女の子の遺体が事故現場近くで引き上げられたという情報が遺体安置所に流れ、多くの人が現場に駆けつけたが、そのなかにあの男性もいた。 彼は50メートル上のから、見る影もない遺体を見るや、瞬時に判別して娘の名を絶叫し、足場の悪い崖を一気に駆け下りて遺体に抱きつき、もらい泣きする周辺の救助隊員たちの手を借りることなく、号泣しながら道路まで駆け上がってきたという。 この男性のように、家族をすべて失った人は少なくない。 大幸住宅に住んでいたツアー主催の「奥様ジャーナル」社長も、五号車に乗っていた妻と長男を失い、なおかつ大惨事の当事者として、被告人として法廷に立つこととなる。 原因 [ ] この節にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2016年1月) 21世紀となってもなお、は降水量の正確な予報を出すことは難しい。 また前述の通り、当時はの発表をリアルタイムで知ることが困難だった。 ただし、後述するように遺族らが訴訟を起こしたことからもわかる通り、国道の危険箇所に対する行政の対応は万全とはいえなかった。 生存した運転手たちは、地元消防団の警告無視などを理由にの容疑があるとして書類送検されたが、はに、運転手の判断に誤りはあったものの災害回避に全力を尽くしたなどの理由により、無罪の判決を言い渡した。 さらに主催者「奥様ジャーナル」社長の状況判断も裁判で問われたが、過失の認定はされず、これも無罪となった。 偶発的な誤った判断に伴うに、悪い偶然が重なるという、によってもたらされる大惨事にありがちな悲劇だったといえる。 天心白菊の塔 [ ] 昭和43年8月18日午前2時11分この上流約300mの国道41号線上で折からの集中豪雨を避難していた観光バス2輌が、山上から流出落下してきた土石流に押し流され濁流渦巻く飛騨川に転落水没し一瞬にして乗客・乗務員104名の尊命が奪われるという一大惨事が発生しました。 しかも、この中濃地方で時を同じくして災害のため14名の犠牲者が出ました。 同年8月17日夜半から18日未明にわたり突如として襲った、異常にして激甚なる集中豪雨による災禍はまさにこの地方の機能を麻痺せしめ、各所に悲惨な被害と事故を惹きおこしたものでありました。 この塔は、全国に浄財を求めもろもろの善意を結集し建立したもので遭難現場の天心に彷徨される災禍犠牲者118名のみたまを偲び、かくの如き惨事のふたたびくりかへされない様、永遠の平穏を祈念せんとするものであります。 大自然の環境とともに在るこの聖地がいつまでも清浄に皆様のより美しい善意によって守護されることを希求してやみません。 合掌 昭和44年8月18日建之 岐阜県加茂郡白川町 飛騨川バス事故遺族会 偶然にも、この日に現場から1キロメートル下流の河原で白骨化した男性の遺体が発見された。 乗客で唯一の生存者である中学生は、以下のような追悼文を朗読している。 お母さん、私は昨日も夢の中でお母さんに会いました。 お星様の中からお母さんの優しい顔が私を見つめていたのです。 いくら呼んでもお母さんは返事をしてくれません。 悲しくなって目を覚ますと私の顔は涙に濡れていました。 でも今日、亡くなった人たちのおうちができました。 皆さん仲良く暮らしてください。 二度とこのようなことがないように、塔の中からしっかり見守っていてください。 現場近くの上麻生発電所員により、毎月清掃活動が続けられている。 なお、慰霊祭は毎年命日である8月18日に「天心白菊の塔」で行われてきたが、遺族たちも高齢化し、に実施された33回忌を期に遺族会は解散した。 事故から40年目にあたる8月18日に、慰霊祭が白川町仏教会の主催で実施され、遺族のほか白川町長、町会議員など約60人が参列している。 その際、に死去した遺族会会長の息子により、かつてバス会社社長から遺族会に贈られたブロンズ製の母子観音像が初めて会場に安置された。 対策 [ ] 事故の責任をめぐり、不可抗力の天災か、主催者および旅行会社・バス会社の判断ミスによる人災かが争点となった。 当時のであった佐藤榮作は事故発生を知ると、その翌日には対策に乗り出し、「岐阜バス事故対策連絡会」を内閣に設置した。 そのうえで、道路管理には瑕疵がないことを前提にした上で、(自賠責)の適用を軸とした遺族補償が可能かどうかを関係省庁に検討させた。 だが、現地を調査した会社調査団やの有無について現場検証を行った岐阜県警は、事故の原因となったは不可抗力であり、バス会社へのは問えず、自賠責保険は「無責」として支払いの対象外であるとの認識が下された。 この岐阜県警の判断はにが追認している。 またも不起訴とした。 しかし、佐藤内閣は交通行政の主務官庁であるに命じて独自の調査を行う。 その結果、当時のであったはに見解をまとめてで報告した。 その内容は、自賠責法第三条における完全無責の条件は業務上の過失がないことを完全に証明できた場合にのみ適用されるが、「飛騨川バス転落事故の場合は運転を行った岡崎観光自動車が事故発生を未然に防ぐための注意義務に欠けていたため、業務上過失責任は立証される」と解釈し、自賠責の対象とするべきであるとの結論であった。 この運輸省による結論は閣議で承認され、4日後のより特例での自賠責保険支払いが殉職した運転手を除く全遺族に支払われることとなった。 この一件は、後にが誕生する契機にもなる。 一方、遺族は10月に「 飛騨川バス事故遺族会」を結成し、天候が不順であるにもかかわらずツアーを決行した主催者の奥様ジャーナルと後援の名鉄観光サービス、および運転を担当した岡崎観光自動車の三社に対してを求めた。 交渉は半年近くに及んだが、翌(昭和44年)、総額4090万円(当時の金額)での補償案に合意し、示談が成立した。 しかしながら、国が当初から道路管理は適正と主張していたことに対して不満を持っていた遺族会は、国道41号の整備が不良であるために起きた人災であるとして、国の管理に対する責任を問うため、一周忌に併せて開かれた遺族会において訴訟を行うことを満場一致で採択し、総額6億5000万円のを求める訴訟をに起こした( 飛騨川バス転落事故訴訟)。 名古屋地裁は(昭和48年)の第一審判決において、「国の過失六割、不可抗力四割」と認定して約9300万円の賠償を国に求める判決を下したが、原告の遺族会はこれを不服としてした。 (昭和49年)のの判決は、土石流を防止することは当時の科学技術の水準では困難であったとして道路自体の欠陥は否定しながらも、事故現場付近でが起きる危険性は予測可能であったとし、通行禁止などの措置をとらなかったことを瑕疵と認めるなど原告側主張を全面的に認め、国に約4億円の支払いを命じている。 国側は上告せず、結審した。 この事故は多くの教訓を残したが、特に異常気象発生時における国道の防災体制が整備される契機となった。 事故の翌月には全国の国道で総点検が実施されていたが、これは後に「道路防災点検」として制度化され、5年ごとに実施されるようになる。 またも制度化され、一定量以上の降水量が記録された場合にはゲートを閉じて国道を通行止めにする対策が採られるようになった。 この道路管理者による雨量通行規制は、現在は国道だけではなくなどすべての道路において、沿線に常住人口がいない山岳部の区間で実施されている。 現場の国道41号は連続雨量が150ミリを超えた場合、加茂郡中麻生の上麻生橋から白川町の白川口までが通行止めになると定められている。 なお、この基準は道路や区間により異なる。 抜本的道路改良へ [ ] 現場付近の国道41号は、現在も事故当時と同じルートを通っており、度々土砂崩れ、落石、倒木等が発災している。 上記のによる通行止めによって人命にかかわるような大事故は起きていないものの、現場付近の上麻生規制区間の延べ通行止時間は国道41号線の規制対象区間中最多となっている。 このため平成30年度より転落事故現場を含む6. 2km区間について、トンネルおよび橋梁を用いたバイパス新道(一部は現道を利用)により付け替える改良が事業化された(上麻生防災)。 この事業により飛騨川沿いを通る事故現場付近の道路はトンネルに置き換えられる。 なお旧道上になる「 天心白菊の塔」は新道の直近になる見込みである。 時系列表 [ ] 年 月日 時刻 動き (昭和43年) 8:30 、下に大雨洪水雷を発表。 17:15 岐阜地方気象台、岐阜県下の大雨洪水雷注意報を解除。 21:30 ツアー一行、のに集合。 22:00 ツアー一行、犬山を出発。 22:30 岐阜地方気象台、岐阜県下にを発表。 23:00 (事故現場近く)三川小学校観測地点で時間雨量が100ミリを超える。 、各所で寸断される。 0:00 ツアー一行、中継地の岐阜県(現在の)に到着。 悪天候により引き返すことを決定。 1:31 付近で発生、一号車から七号車までの六台が国道41号で立ち往生する。 2:11 五号車・六号車、がけ崩れの直撃を受け飛騨川に転落。 飛騨川バス転落事故発生。 運転手ら、上麻生ダム見張所に救援要請。 見張所職員と員、に通報し残余のバス乗客を避難させる。 5:40 上麻生発電所、に事故第一報を通報。 警察、消防が現場に急行。 岐阜県、に要請を行い、から自衛隊員が出動。 飛騨川の水位を下げる。 10:30 五号車、河岸の中段で発見。 26遺体を収容。 に事故被害者の遺体が漂着する。 0:00 「水位零作戦」了承される。 陸上自衛隊、より六号車引き揚げのための増援部隊が招集される。 8:00 第一次「水位零作戦」が開始される。 上麻生ダム・名倉発電所全出力運転開始。 9:50 名倉発電所運転停止・名倉ダム放流開始。 10:00 上麻生ダム放流停止。 飛騨川の水量がゼロになり、六号車が川底から発見される。 10:30 上麻生ダム満水になり、再び放流開始。 第二次「水位零作戦」が開始される。 第三次「水位零作戦」が開始される。 六号車が収容され、1遺体が発見される。 下流にある飛水湖の捜索開始。 へ捜索を拡大。 まで捜索を拡大。 最終的に95遺体を収容するが、9遺体は発見できず。 の・、による特例補償を行う方針をで報告、閣議これを了承する。 各会社、閣議の決定に基づき遺族にの支払いを開始する。 、慰霊献花のため現場を訪問。 10月 被害者遺族、「飛騨川バス事故遺族会」を結成。 (昭和44年) 第五回遺族会総会開催。 主催者側(奥様ジャーナル・・)との示談が成立する。 8月18日 事故現場に天心白菊の塔が建立され、一周忌が執り行われる。 この際1遺体が発見される。 8月 遺族会、国の道路行政の責任を問い(飛騨川バス転落事故訴訟)をに起こす。 (昭和48年) 事故訴訟の名古屋地方裁判所判決が下る。 原告・被告双方が判決を不服としてにする。 (昭和49年) 事故訴訟の名古屋高等裁判所判決で原告遺族全面勝訴。 国はせず補償金を支払い、判決が確定。 補足 [ ] この時の豪雨は地元の人間にとっても普段の比ではなく凄まじいものであった。 事故現場からほど近い(現)のの当直助役は、経験のない程の豪雨に恐怖と不安を感じ、その豪雨の中やってきた発行き下り普通列車に青信号(進行現示)を出さなかった。 その決断は事故前日22時31分である。 列車が遅れており苛立つ乗客に詰め寄られても頑として拒んだという。 その後、上述の通り白川口駅付近での路盤崩壊が発見された( - 間がまで不通となる)。 そして駅から約300mと 寄り約1kmの2か所で土砂崩れが起きていた。 また同じ頃、でも、当直助役が発行き上り普通列車の前途を心配し、一つ富山寄りのに当該列車の抑止を依頼した直後、付近の様子を見に行った消防団員から、下油井駅付近での土砂崩れ発生の連絡を受けた。 当時の高山本線はまだが運用されておらず 、両方ともそのまま進行現示を出していれば大事故になっていたであろうと言われている。 結果、高山本線の被害は、土砂崩れ、浸水箇所の10か所にのぼった。 また、これらの行動で事故発生を防いだ白川口・下油井両駅の当直助役には表彰状、消防団員には感謝状が、から贈られた。 なお、事故時点ではCTC整備中で、その1か月半後から監視がされており、白川口駅はによる簡易委託駅になっている。 現場付近の高山本線は国道41号の対岸を走っているため、事故当時の面影を車窓から確認できる。 事故発生から半世紀となる、事故当日に現場のすぐ近くで立ち往生していた他のバスの運転手だったの社員(に69歳で死去)が、事故から20年後のに書いた回想の手記が公表された。 類似の事故 [ ]• () - でを行っていたがへ転落。 死者28人前後とみられているが、不特定多数の乗客であるため最終的な死者数が確定できていない。 () - で国道305号を走行中のマイクロバスが岩盤崩落の下敷きとなり、乗客乗員15人全員が死亡した。 当時悪天候などは見られず、岩盤も落石防護被覆(ロックシェード)を突き破って道路に到達した。 () - で竜ヶ水駅に停車中の普通列車が豪雨による土石流の下敷きとなり、乗客3人が死亡した。 事故直前に前後の線路は遮断されており、運転士も事前に乗客を避難させていた。 事故に巻き込まれた乗客は運転士の指示に従っていなかった。 () - のの内を走行中だったの余別発行き路線バスと、後続の1台と、対向の乗用車1台の計3台がトンネル内部で岩盤崩落の直撃を受け、間一髪で脱出した乗用車運転の1名を除き、バスの乗客18名と乗員1名と乗用車1名の計20名が死亡した。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 今日でいうのはしりで、に創刊され、廃刊。 雷雨注意報は現在の雷注意報。 四号車は験を担いで欠番となっていた。 しかし、結局のところ間に挟まれた三、五、および六号車で死者を出した(三号車の運転手が連絡のために五号車に乗っていたため)。 自衛隊においては、旧軍や諸外国の軍隊同様、戦時以外においても目標を達成するための計画的行動を「作戦」と呼んでいる。 (昭和39年)に改定されたにおけるダムの規定は高さ15. 0メートル以上であり、高さ13. 2メートルの上麻生ダムは現在の法律上ではにあたる。 大幸住宅は、他は(以降は引山住宅と天神下住宅は)。 いずれの団地も建て替えられて、当時の住宅棟は現存しない。 ただし、30年後のにも現場付近で土砂崩れが発生し、車両90台が閉じ込められているが、人的・物的被害はなかった。 高山本線は本線格ながらも災害が多発するという特異な路線で、地方路線としては1968年時点では異例のCTC整備が行われた。 この事故はその1か月半前に発生している。 出典 [ ]• 犠牲者の腕時計による。 岐阜国道事務所. 2018年8月19日閲覧。 岐阜国道事務所. 2018年8月19日閲覧。 毎日新聞中部本社版1968年(昭和43年)8月24日付夕刊第7面• 参考文献 [ ]• - (2013年4月27日アーカイブ分)• 第26巻2号 「飛騨川バス転落事故104人死亡の惨劇」:2月• 関連項目 [ ]• - 毎日新聞記者時代に当事故を取材している。 外部リンク [ ]• ()- 本記事に記載された道路のキロポストの確認に活用すると便利。

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